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高校生で世界新記録→大学で大スランプに…競泳界の《消えた天才》山口観弘が告白する“黄金世代”の苦悩「大也や公介の活躍は嬉しかったけど…」
posted2024/02/25 11:01
text by
田坂友暁Tomoaki Tasaka
photograph by
(L)JIJI PRESS、(R)Yuki Suenaga
2012年の9月、競泳男子200m平泳ぎで、まだ高校生だった山口観弘が世界新記録(当時)を叩き出した。五輪で2大会連続の金メダルを獲得していた北島康介の「後継者」として一躍スターダムに躍り出た18歳は、その後の日本競泳界を背負う存在として、大きな期待をかけられることになった。
だが、その後の山口の競泳人生は決して順風満帆なものではなかった。なぜ、天才スイマーは苦悩し、もがくことになったのか。本人が語ったかつての記憶とは。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/#3に続く》
山口観弘は2013年、東洋大学に入学した。
地元の鹿児島県志布志市を離れ、都内の赤羽台にある大学寮で新生活をスタートさせた。
そしてその年の日本選手権では、200m平泳ぎで初優勝を果たす。実は、山口は日本一になる前に、世界一になっていた希有な存在でもあった。
「ようやく日本一になれたので、しっかり世界と戦ってきます」
優勝した日本選手権後のインタビューで、山口はそう話している。
高校3年生にして200m平泳ぎで世界の頂点に立ち、さらに翌年には日本一の称号を手にした山口の未来は明るいはずだった。
しかし、結論から言えば大学時代の山口は最後まで期待されたような輝きを放つことはできなかった。
歯車は、すでにこの頃から狂い始めていた。
大学で長期のスランプに…原因は?
「高校3年生の冬くらいに、海外合宿の最中に左の肘を痛めてるんです。そこから、いろいろなことがおかしくなり始めました」
次いで、左脚のハムストリングスの動きが悪くなった。オーバーワークだったこともあるが、左肘が完治しないまま練習を続けたことによって、肘をかばおうとする代償動作で、身体のほかの部分に支障が出始めたのである。
高校時代からすでに、遠征前には当時の東洋大学の監督である平井伯昌コーチの指導を受けていた。そのときと練習の内容自体は大きく変わらない。
にもかかわらず、疲労が抜けず、故障箇所も治らない。結果的に泳ぎの感覚もどんどん悪くなっていった。
「今だから分かることなんですけど……不調の“原因”を探ると2011年まで遡るんです」
2011年の山口は高校2年生。世界ジュニア選手権の日本代表に選ばれ、代表合宿で東京と地元の志布志を往復する生活をしていた。
「2週間合宿で強化して、2週間志布志に戻る――というルーティンでした。この地元に戻って練習する2週間という期間がすごく重要だったんです」