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高校生で世界新記録→大学で大スランプに…競泳界の《消えた天才》山口観弘が告白する“黄金世代”の苦悩「大也や公介の活躍は嬉しかったけど…」
text by
田坂友暁Tomoaki Tasaka
photograph by(L)JIJI PRESS、(R)Yuki Suenaga
posted2024/02/25 11:01
高3時に世界記録をマークした翌年には日本選手権も初制覇した山口。一方で、その後は長いスランプに陥ることになる
代表合宿で行う練習は、自分では思いつかないような、密度が濃く、質の高い練習ばかりだった。だからこそ、そこで得たものを地元に戻って過ごす2週間で反芻して、自分のものにしようとしていたという。
「この志布志での2週間の間に身体を休めながら頭の中でトレーニングを消化して、自分で泳ぎをコントロールできる状態を維持する。その上で、代表合宿で質の高い強化をすることができた。その相乗効果が世界記録につながったのだと思います」
端的に言えば、山口はトレーニングで得た技術を高強度の練習量を継続したまま習得できるタイプではなかった。
どこかで一度立ち止まり、身体を休めつつ自分のなかで取り組みを咀嚼し、身体に馴染ませていく時間が必要だった。つまり「復習」する時間が必要だったのである。高校時代は志布志での「復習」の時間があったからこそ、合宿で行った質の高い強化を自分のものにすることができた。
だが、大学進学後はこの「復習」の時間がないまま、強化が進んでいった。
必用だった「復習」の時間…それでも休めなかった
高校時代よりもはるかにレベルの高いトレーニングが課せられる中で、身体と頭、気持ちがキャパシティをオーバーする状態に陥っていても、立ち止まることができなかった。
「身体はどんどん疲弊していくし、それでも練習するからさらに身体を痛めてしまう。でも、なんとか日々のトレーニングはこなさないといけない。そこでまた別のところを痛めて……その悪循環を4年間、続けてしまった」
トレーニングの過程でフィジカル強化に取り組む、休養を挟んで身体のケアを頻繁に行うなど、対応策自体はあったのだろう。
ただそれは、大人になった今だからこそ打開策を見いだせるものだ。
強豪大学チームの一員として、皆が懸命にトレーニングで切磋琢磨しているなかで、一選手が自分の考えを押し通すことが難しかったのは想像に難くない。
「多分、僕はもともと泳ぎに関してちょっと特殊な感覚を持っていて、さらに高校までいわゆる強豪チームではない田舎の特殊な練習環境で育った人間です。だからきっと――特殊すぎたんです。泳ぎの感覚もそうだし、練習の組み方やスケジュールの立て方も独特でした。だから本当に……ただ、大学というトレーニング環境が僕に合わなかったというだけなんだと思います」
常人には理解できない天賦の感覚を持つ者を「天才」と呼ぶのならば、山口は間違いなくその範疇だった。そして、その才能ゆえに山口は袋小路に迷い込んでしまった。