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バレー日本代表エースの給料が“10分の1”に? 21年前、イタリア挑戦の加藤陽一を待っていた“低すぎる日本の評価”「車やテレビを売って…」 

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弓削高志

弓削高志Takashi Yuge

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photograph byAFLO SPORT

posted2023/10/17 11:01

バレー日本代表エースの給料が“10分の1”に? 21年前、イタリア挑戦の加藤陽一を待っていた“低すぎる日本の評価”「車やテレビを売って…」<Number Web> photograph by AFLO SPORT

1998年世界選手権での日本代表デビュー以降、長らくエースとしてチームを牽引した加藤陽一。海外でのプレーを経験したことで当時のニックネームは「世界を知る日本のサムライ」

――チームメイトとの信頼や地元との関係はどう築いていったんですか。

加藤 当時のイタリア代表で、チームでもエースのサムエレ・パピ(現ギリシャ男子代表副監督)が世界選手権で怪我をして、それで急遽、僕が開幕戦にスタメンで入ることになったんです。練習を重ねて、フレンドリーマッチをしながらチームの仲間たちに馴染んでいって。アルゼンチンでの世界選手権から半月後にはセリエA開幕で、すごく忙しいシーズンでした。でも、それはイタリア人のチームメイトたちも同じ条件ですし、何より世界選手権の会場で見ていた選手たちと同じコートでやれているという幸せというか興奮がありました。

 当時の(ダニエレ・)バンニョーリ監督はチームの若返りとタイトル獲得を同時に目指していた。セッターの(ヴァレリオ・)ヴェルミーリオが僕の1つ年下で当時26歳、リベロの選手(アレッサンドロ・ファリーナ)も僕と同じ1976年生まれでした。フェイは2つ年下くらいですね。同年代が集まってそれをパピが引っ張っていく感じでした。若さと激しさのあるバレーボールができたんじゃないかと思います。

 同年代が多かったから、車に乗り合っていっしょにパーティに行ったり、レストランに食事に行ったり。そういうコミュニケーションがイタリア人はすごく好きなので、楽しかったですね。

 たまにクラブが食事代をもってくれるんですよ、「今日皆でご飯食べに行くからお金出してくれ」ってキャプテンがGMに交渉してくれて。それと、食事をするレストランもチームのスポンサーだったり。

――試合会場や外での地元ファンの応援熱は。

加藤 最初は試合に出てても、僕の国籍が日本か韓国か中国かわからないサポーターの方がたくさんいました。徐々に活躍できるようになると、日本人だ名前は「カトウ」だと興味をもってもらえるようになって。

 プレーオフに出る頃には街を歩いていても声をかけられたし、レストランでご飯食べていたら「昨日勝ったから今日は店の奢りだよ」という風に町の方たちから暖かく接してもらえるようになりました。もちろんチームが弱かったらそうはならなかったかもしれませんが、トレヴィーゾは首位をずっとキープしていたので、そういう意味ではやはり勝てば認められるんだなと実感しましたね。

集合時間がわからない?「はい、カトウ罰金ね」

――言葉の壁にはどう対応されたんですか。

加藤 最初はイタリア語がなかなか話せませんでしたね。たぶん石川(祐希)選手もそうだったと思うんですけど。僕のときは通訳がいなくて、週に2回、日本語が話せるベネツィア大学の学生さんに来てもらって、僕が日本語を教えて彼女からイタリア語を教わる形で勉強をしていましたね。

 数字を覚えるのが大変でした。集合時間がわからなくて困るんですよ。(「12時15分前」のように)マイナス何分みたいな言い方をされると、それは何時なんだ?と。練習に遅れることはなかったですけど、一度ミーティングに5分遅れたときがあって、入室したら皆に拍手されて「はい、カトウ罰金ね」と。5ユーロくらい皆に払った記憶がありますね(笑)。

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