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甲子園の風BACK NUMBER
松井秀喜“5打席連続敬遠”の夏から31年…「おとなのエゴ」と断じられた明徳義塾・馬淵史郎監督が語っていたホンネ「あそこまで書くなら…」
text by
安藤嘉浩Yoshihiro Ando
photograph byJIJI PRESS
posted2023/10/04 17:01
松井秀喜(星稜)への5打席連続敬遠で猛バッシングを浴びた明徳義塾の馬淵史郎監督。「松井君と勝負できるピッチャーがおらんかった」と当時を振り返る
5連続敬遠への批判に「あそこまで書くなら…」
すでに定年で朝日新聞を離れた先輩記者が書いた記事だった。長く高校野球を取材し、プレーや采配を深掘りする内容のコラムに定評があった。ぼくも野球取材について、いろんなことを教えてもらった大先輩だ。
報道陣の間でも賛否が分かれた5連続敬遠については、この先輩は批判的な立場をとった。
徹底した敬遠策を「おとなのエゴ」と断じ、「明徳ベンチは『勝利』にこだわるあまり、もう一つの大事なものを忘れていた、といいたい」と結論づけたのだ。
「〇〇さんもあそこまで書くなら、いっぺんここに来て、明徳がどんなところで、どんな野球をしとるのか、見てから書いて欲しかったな」
グラウンドの入口には「明徳野球道場」と書かれていた。部外者であるぼくに気づくと、選手たちは「こんにちは」と元気にあいさつしてくれる。キビキビと動きながら、基本練習を繰り返す様子に好感が持てた。
「人を育てるのが高校野球よ」
のちに何度となく話を聞く中で、馬淵監督がよく口にした言葉だ。そういう指導をしていることを理解して欲しかったのだろう。
「後輩のぼくが来ましたから。それで勘弁してください」
このときのぼくは、そう答えて作り笑いを返すことしかできなかった。
「松井君と勝負できるピッチャーがおらんかったのよ」
取材を重ねる中で、馬淵監督が当時の事情や思いを語ってくれた。
「エースがおったら、全部敬遠はせんかった。あと、うちが先に点をとれずにリードされたら、勝負しとった」
エースの右ひじ痛が完治せず、野手兼任の投手しかいなかった。監督として、あらゆる可能性を考えながら、導き出した作戦であり、結果だったのだ。
当時は、今では考えられないような厳しい練習を選手に課していたという。
「うちに来る子は、希望する学校に行けなかった子が多かった。うつむきながら入学してくるんよ」
そんな生徒たちに自信をつけて卒業して欲しかった。一生懸命に練習し、自分が行けなかったような学校に勝利することが、彼らの未来につながると信じていた。