- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
松井秀喜“5打席連続敬遠”の夏から31年…「おとなのエゴ」と断じられた明徳義塾・馬淵史郎監督が語っていたホンネ「あそこまで書くなら…」
posted2023/10/04 17:01
text by
安藤嘉浩Yoshihiro Ando
photograph by
JIJI PRESS
2023年9月、野球のU-18ワールドカップで高校日本代表(侍ジャパンU-18代表)が悲願の初優勝を遂げた。チームを率いた馬淵史郎監督にとっては、「あの夏」から31年、67歳でつかんだ金メダルだった。1992年、松井秀喜への5打席連続敬遠で猛烈なバッシングを浴びた青年監督は、いかにして“名将”への階段を上っていったのか。「あのときの記事を切り抜いて、今でも持っとるよ」――誰よりも勝負にこだわる男の信念に迫った。(全2回の1回目/後編へ)
「あのときの記事を切り抜いて、今でも持っとるよ」
ぼくが初めて馬淵史郎監督にじっくり話を聞いたのは、1997年2月だった。
馬淵監督は当時、41歳。夏の甲子園大会で星稜(石川)の松井秀喜を5打席連続敬遠してから、5年しか経っていなかった。
明徳義塾は、まだ全国的な強豪校とは言えないチームだった。物議を醸したあの夏のあとも、3年間は甲子園に出場できなかった。
ただ、1996年はサイドスローの吉川昌宏(元ヤクルト)を擁して甲子園に春夏連続出場し、計3勝をあげた。さらに同年秋も四国大会で準優勝し、第69回選抜高校野球大会への出場が決まっていた。
これで3季連続の甲子園出場になる。新2年生に好投手もいると聞く。寺本四郎(元ロッテ)、高橋一正(元ヤクルト)の両投手だ。
朝日新聞のスポーツ記者だったぼくは、その3カ月前に東京から大阪に転勤となり、高校野球担当を続けることになっていた。
「明徳義塾を訪ねて馬淵監督にあいさつし、練習を見せてもらおう」
そんな思いで高知県須崎市を訪ねたのだ。
「遠かったでしょ。よう来てくれたね」
自分より10歳下の若手記者を、馬淵監督は淡々と出迎えてくれた。とくに歓迎する雰囲気もないが、冷たい感じもしない。しばらくは一塁側ベンチで一緒に練習を見ながら、選抜大会に向けた抱負などを聞いた。
なにかの拍子に、5連続敬遠の話題になった。ぼくから差し向けたのか、馬淵監督から切り出したのか。そのあたりは記憶にない。
ただ、その低い声色は鮮明に覚えている。
「わしは、あのときの記事を切り抜いて、今でも持っとるよ」