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「坊主頭を強制する文化」「過剰な選手管理」慶應高・森林貴彦監督が問題視する“高校野球の常識”「高校野球は許される範囲が極端に狭い」 

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森林貴彦

森林貴彦Takahiko Moribayashi

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photograph byToyokan Shuppansha

posted2023/08/11 06:00

「坊主頭を強制する文化」「過剰な選手管理」慶應高・森林貴彦監督が問題視する“高校野球の常識”「高校野球は許される範囲が極端に狭い」<Number Web> photograph by Toyokan Shuppansha

神奈川大会では東海大相模、横浜を打ち破り、甲子園出場を決めた慶應。そのチームを率いる森林貴彦監督の野球論をお届けする

 これは野球でもサッカーでも、スポーツであれば同じことが言えるかもしれませんが、高校生が部活動をするということは、やはり教室だけではなかなか手に入らない「果実」を得られるのです。現在、部活動は厳しい視線にさらされ、授業の優先や教員の負担の緩和が重視されるようになり、縮小傾向にあります。「部活動はやるものではない」といった風潮が広がりつつありますが、それでも教室では得られない人間的な成長を経験する価値が部活動にはあると考えています。

慶應野球部では「手取り足取り指導」はしない

 そして二つ目の価値は、自分自身で考えられることの楽しさを味わえることです。自分で考えるのは難しさも伴いますが、その分やりがいも得られます。そうしたところを野球を通して感じてほしい、経験してほしいと思いながら、日々の指導にあたっています。

 そのため慶應義塾高校野球部では、1から10まで教えることや、手取り足取り指導するといったことはしていません。それよりも、選手自身がどのように打ちたいのか、どのように守りたいのか、どのように投げたいのかを自分で考えたほうがいい。自分なりの課題を見いだし考えていく中でコツをつかみ、自分なりの答えを見つけていくことに価値があるのです。

 もちろん、打ち方や投げ方、守り方を細かく教え込んだほうが正しいという考え方も理解できます。すぐに結果を出すには、そのほうが近道かもしれません。しかし、その選手自身が何かをつかんだかと問われると、「監督やコーチの言う通りにしていたらできました」という答えしか返ってこないでしょう。それでは、もし仮に将来プロ選手になったとしても、何か問題に直面したときに自分で考える力や習慣が身に付いていないため、大成することはおろか、一定の結果を残すことさえも難しいと言わざるを得ません。

何でも教えることがよいことなのか

 私は慶應義塾幼稚舎で小学校の教員も務めていますが、そこでも同じことを感じています。現代は習い事社会ということもあって、子どもたちは何でも「教えてください」と聞いてきます。野球も同じで、習い事化しているために、物心つく前からボールの持ち方やバットの握り方、構え方から打ち方に至るまで何でも教えてしまいます。これでは、“自然と自分でつかむ”という経験ができません。大人や親は子どもにいろいろなことを経験させたい、学ばせたいと思ってそうさせているのでしょうが、大人が子どもに対して何でも先回りしていくことが本当によいと言えるのでしょうか。

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