沸騰! 日本サラブ列島BACK NUMBER
「えっ、いきなり5馬身差?」武豊とメジロマックイーンの名コンビが見せた“スター馬の証明”…「GII時代の大阪杯」はこんなに豪華だった
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/02 11:05
数々の名レースを生んだ、メジロマックイーンと武豊騎手
マックイーンvsテイオーの名勝負
芦毛の王者メジロマックイーン(牡、父メジロティターン、栗東・池江泰郎厩舎)は、1990年の菊花賞を内田浩一の手綱で勝ち、GI初制覇を遂げた。翌91年、メジロ軍団の総帥で、1984年に世を去った北野豊吉の「遺言」でもあった祖父メジロアサマ、父メジロティターンにつづく天皇賞父仔3代制覇を果たすべく、武豊が新たな鞍上に指名された。
武・マックイーンはその期待に応え、91年の天皇賞・春を完勝。史上初の天皇賞父仔3代制覇を果たすと同時に、武は同レース3連覇をなし遂げた。
その年の天皇賞・秋は、1位入線も、スタート直後に斜行し、他馬の走行を妨害したとして最下位に降着となった。
翌92年、このコンビは史上初の同レース連覇(騎手ではなく馬による記録)を目指し、天皇賞・春に臨んだ。そこに立ちはだかったのが、コンビ初戦となった大阪杯を完勝した、岡部幸雄・トウカイテイオーだった。前年の二冠を含め、7戦7勝。そのすべてが圧勝という、とつてもない強さを誇っていた。
それまで武・マックイーンのコンビはすべて単勝1倍台の1番人気の支持を得ていたが、このとき初めて1番人気の座を譲ることになった。マックイーン対テイオーの「天下分け目の決戦」と言われたこの一戦。頂上決戦を制したのは、武豊・メジロマックイーンだった。
その後は宝塚記念をターゲットに調整されていたが、調教中に左第1指節種子骨骨折を発症。長期の戦線離脱を余儀なくされた。
「マックイーン復帰戦」GII大阪杯で見せた衝撃
そこからの復帰戦となったのが、1993年の大阪杯であった。
大目標は天皇賞・春3連覇だった。そこに向け、本来なら、ローテーション的に余裕のある阪神大賞典から始動したいところだったが、左前脚に骨膜炎を発症するなどして調整が遅れ、本番まで中2週の大阪杯に出ることになった。
その中間は、初めて試みた坂路調教で立ち止まるなど、ハードトレーニングで知られた池江厩舎にしては、十分な強度の調教はなされていなかった。1年近い休養明けとはいえ、前走からプラス14kgの504kgの馬体重も、調整不足から来るものという見方もあった。
単勝は1番人気ではあったが、ナイスネイチャと同じ2.4倍というオッズが、不安材料の大きさを示していた。