Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「まったくない話だった」パリ世代・半田陸の”ローマ報道”とガンバ移籍の真相、現代型SBの理想は“あの2人”の融合「いい部分を盗みながら」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byDaisuke Nakashima
posted2023/03/01 17:01
22年11月のU-21スペイン代表戦にも出場した半田陸。パリ五輪を目指す世代別代表でも活躍が期待される
「それで、(プレー強度や守備力が武器の)酒井選手が理想だと答えているんです。もちろん、(同じく日本代表の)山根視来選手のプレーもよく見ます。酒井選手とは異なる武器がある選手だから、それぞれのいい部分を盗みながら、っていう感じです。だから今後、理想の選手を聞かれたら『酒井宏樹さんと山根視来さんを足して2で割ったような選手』と答えることにします(笑)」
アカデミー時代から指導者との出会いに恵まれ、プロになったあとも、抜擢してくれた石丸監督やサイドバックとして起用し続けてくれたクラモフスキー監督、前述の川井監督と、多くの指導者に引き上げられてきたが、U-17日本代表時代の監督、ゴリさんこと森山佳郎監督も大きな影響を受けたひとりである。
普段は驚くほどマイペースで、おっとり、のんびりしている半田がピッチ内ではリーダーシップを発揮し、闘う姿勢を前面に出せるのも、森山監督の影響と言える。
「ゴリさんには代表に選んでもらっただけでなく、キャプテンにも指名してもらった。それに、闘うというサッカーの本質も教えてもらいました。ゴリさんは気持ちがすごく強い人で、言葉に感情を乗せて伝えるのがうまいし、ゴリさん自身が悔し涙を流しながらミーティングをすることもあった。サッカー選手として大事なことを教えてもらったと思っています」
「世界大会の怖さを知った」U-17W杯のリベンジを
その森山監督のもとで戦った19年のU-17W杯は、半田にとって忘れようとしても忘れられない大会である。
ブラジルのガマで行われたラウンド16のメキシコ戦――。
0-2のスコアで試合終了のホイッスルが鳴ると、チームメイトは肩を落とし、膝から崩れ落ちた。
キャプテンとしてチームを引っ張ってきた半田は、その光景をベンチから見つめていた。
グループステージ突破を決めていたセネガルとの第3戦で筋肉系のトラブルに見舞われ、大事をとって控えに回っていたのだ。
「やれないこともなかったんですけど、ゴリさんやメディカルの方から『無理をするところじゃない』と言われて。優勝候補のオランダとの初戦に3-0で勝ったときには、優勝できるんじゃないかと感じましたし、チームの雰囲気もすごく良かった。だから、あんなにあっけなく敗れてしまうなんて。世界大会の怖さを知ったし、そこで出られなかったことが本当に悔しくて。その悔しさを次の代表で晴らしたかったんですけど、U-20W杯はコロナ禍で中止になってしまって。だから、あの悔しさは今も晴れていない。なんとしてもパリ五輪に出て、いい結果を残したいです」
世界大会に懸ける思いがひと一倍強い理由が、ここにある。
24年のパリ五輪で悲願のメダル獲得を実現すれば、ブラジルでの悔いも晴れることだろう。
だが、23年シーズンは、ガンバの右サイドバックとして確固たる地位を築き、ガンバの勝利に貢献し、新しいガンバを作り上げる一員となることに集中するつもりだ。
その先に、世界への道が続いていると信じて、半田陸はJ1のピッチで闘う。
(前編からつづく)
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