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ぶら野球BACK NUMBER
「絶望も挫折もありました」鬼のマサカリ・村田兆治が泣いた“引退スピーチ”…40歳で10勝「まだやれる」の声もなぜ引退を決断したか?
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2022/11/24 11:02
1990年10月13日、ラスト登板時の村田兆治。ファンを感涙させた涙のスピーチとは
ラスト登板…「涙のスピーチ」にファンが震えた
すでに7月に村田は引退を決意していたのだ。そして、9月30日のラスト登板が雨で流れ、仕切り直しの10月13日の西武戦、本拠地・川崎球場でまたも雨が降る中、最後のマウンドへ。捕手は同じくこの年限りで引退する袴田英利が務め、前売指定券はすべて売切れた。長蛇の列が歩道にあふれないよう、12時半の開門予定が1時間半も早められる。2万2000人の観客が見守る中、初回から直球で押しまくるマサカリ投法に衰えは微塵も感じられない。最速145キロのストレート、フォークボールやスライダーはキレまくり、秋山幸二から三振を奪い、清原和博も無安打に封じ込めた。終わってみれば、西武打線を5回無失点に抑え、雨天コールドゲームで勝ち投手に。83球の完封で通算215勝目を挙げ、「人生の喜びも悲しみも、すべてこのマウンドの上にありました。絶望も挫折もありました」と挨拶した昭和生まれの明治男は涙をぬぐい、ロッテナインから胴上げで送り出された。
最後の1年は26試合で10勝8敗2S、防御率4.51。41年ぶりの40代二桁勝利を達成する一方で、シーズン最多暴投記録を更新する17個で自身12度目の暴投王に。最後まで己の投球を貫いた。しかし、誰がどう見てもまだ充分投げられたはずだが、なぜ村田はユニフォームを脱いだのだろうか?
「まだやれる」の声…なぜ引退を決断?
自著『哀愁のストレート』(青春出版社)の中で、「まだやれるのに、と多くの人にいわれたが、まだやれるの『やれる』のイメージがどこにあるかだ。そういうギリギリの線で引退を決意したのが40歳のときだった」と記しており、引退直後に出版された『剛球直言』(小学館)では、はっきりと「余力を残してマウンドを去ることがエースの美学だ」と本心を告白している。
「先発完投をしてこそ、プロフェッショナルと呼ばれ、エースと尊称されるにふさわしい。だから、その期待に応えられなくなれば、いさぎよくユニフォームを脱がねばならないと考える。わずか、数イニングスの闘いだけで終えるリリーフ役に転じるのは、私の美意識にそぐわない。“マサカリ兆治”のイメージを崩さずに引退することが、私のダンディズムの極致なのである」
オレは最後の最後まですごい投手という印象のまま消える。村田兆治は二番手や三番手として延命するのではなく、ロッテのエースのままプロ生活に別れを告げたのである。
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