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アントニオ猪木のカリスマ性、その正体は? レスラーの証言「あんな馬鹿な試合、俺と猪木にしかできない」「賛否はチャレンジの結果」
posted2022/09/11 17:01
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
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<名言1>
猪木さんが現役の頃は、午後5時半開場だと、その日の第1試合が始まる6時ギリギリまで、猪木さんがリングで本気のスパーリングをしてた。
(武藤敬司/Number PLUS AUGUST 2018 2018年7月10日発売)
◇解説◇
武藤は橋本真也、蝶野正洋とともに「闘魂三銃士」として1980年代後半から1990年代にかけての新日本プロレスを牽引した。その武藤が印象に残っている出来事として挙げたのは、興行前のアントニオ猪木のスパーリングだった。
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「若手もお客さんもそれを真剣に見ていて、そのあとすぐ前座の試合が始まるから、試合に感情移入しやすかった」
興行前から猪木自らが闘う空間を作り上げる……。そういったところまで考え抜いていたからこそ、猪木はカリスマ的人気を博したのだろう。
実はコテコテのアメリカンプロレス?
<名言2>
猪木さんのプロレスは、じつはコテコテのアメリカンプロレス。
(棚橋弘至/Number882号 2015年7月16日発売)
◇解説◇
PRIDEやK-1にファンを奪われ、冬の時代を乗り越えた新日本プロレスに黄金時代が訪れている。そんな彼らの目を通して見た“アントニオ猪木像”も興味深い。
棚橋はプロレス不遇の時代にあっても「100年に一人の逸材」として新日の看板を守った。彼がリングで表現する明るいプロレスは、ストロングスタイル信奉者からは拒絶反応をくらった時期もあった。
しかし……棚橋本人は自らのスタイルについて、アントニオ猪木のプロレスと本質的には同じものだと捉えているようだ。
「外国人に散々やられて、最後は卍固めや延髄斬りで決める。プロレスの社会的地位を上げようと格闘技路線に走り、引退後は総合格闘技ブームに乗ろうとした」
このように猪木プロレスを分析していた棚橋。武藤のように新日本を飛び出さずに踏みとどまって、ブーイングを歓声に変えていった。
黒いタイツを履いていなくとも、棚橋もまた、まごう事なき“猪木の遺伝子”と言えるのだろう。