Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
カール・ルイスの100m世界記録9秒86はなぜ東京で誕生したのか? 1991年世界陸上スターターが明かす”早かった”号砲の真実
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byAFLO
posted2022/07/24 17:00
1991年8月25日、男子100m決勝。勝利を確信したカール・ルイスは両手を広げ、天を仰ぎながらゴールした
競技はシンプルに、競技以外はドラマティックに
「オリンピックの陸上競技も、世界陸上も、こんなに素晴らしい大会なのに、放送はなんでこんなにつまらないんだろうと思っていたんです。僕にやらせてくれたら絶対、世界をアッと言わせられると思っていた」
たとえば、1988年のソウル五輪でこんなことがあった。400mハードルで2度のオリンピックと、2度の世界陸上でいずれも負けなしだったアメリカの絶対王者、エドウィン・モーゼスが敗れた。ところが優勝者以上にドラマチックなモーゼスの姿をテレビは映してくれない。坂田いわくスポーツ中継の原則は2つに集約されるという。
「競技はシンプルにわかりやすく、競技以外はドラマティックに。競技と競技の間にドラマがあるんですよ。ドラマティックにというのは、簡単に言えば、ライバル関係をいかに見せるかということなんです」
陸上の華は、男子100mだ。わずか10秒の勝負。そこに人類が身体能力を発達させるために注いできた叡智が凝縮されている。東京大会の成功は、競技初日と2日目の男子100mにかかっていた。
坂田は様々な媒体を通じ、同種目に秘められたライバル物語を喧伝した。バルセロナ五輪を翌年に控え、男子100m戦線は、世代交代の波が押し寄せていた。先の全米選手権で9秒90の世界新を出した24歳のリロイ・バレルと、そのバレルに3連敗中の30歳のルイス。しかも、2人は同じクラブの仲間でもあった。
大観衆という魔法は時に選手を別人に変える
ところが、大会が近づいても世間の反応は乏しかった。チケットがまったくと言っていいほど売れない。同年春、「バブル崩壊」の足音が聞こえ始めた。そんな中、高額なチケットはどこか浮世離れしてもいた。
そんな流れを変えたのは、初日の男子100m予選だった。ルイスが追い風参考ながら9秒80をマークするなど好記録が続出。日本テレビ同様、日本陸連もこの大会に賭けていた。記録が出やすいよう国立競技場のアンツーカーを当時としては珍しいハードなものに取り替えたことが奏功したのだ。坂田は「世界新を期待するのに十分な結果でしたね」と思い起こす。
翌日、放送が始まると、日本テレビはルイスとバレルがホテルを出るところ、ロッカーへ入るところ、ウォームアップ場に出てきたところと、その日の行動を余すところなく電波に乗せ、2人の対決を煽った。
競技場には準決勝が始まる夕方から客が押し寄せ、決勝を迎える頃には、まさに立錐の余地もなかった。大観衆という魔法は時に選手を別人に変える。坂田が蒔き続けた種が、ようやく実を結んだのだ。