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カール・ルイスの100m世界記録9秒86はなぜ東京で誕生したのか? 1991年世界陸上スターターが明かす”早かった”号砲の真実
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byAFLO
posted2022/07/24 17:00
1991年8月25日、男子100m決勝。勝利を確信したカール・ルイスは両手を広げ、天を仰ぎながらゴールした
「位置について……」
土壇場で、最高の舞台が整った。世界新記録は、大会関係者の共通の夢である。スターターの飯島秀雄も思いは同じだった。
「そりゃあ、(世界新を)出させてやりたいですよ」
飯島は男子100mの元日本代表で、かつての日本記録保持者でもあった。現役引退後、プロ野球のロッテで代走のスペシャリストとして3年間、プレーしたという異色の経歴の持ち主でもある。飯島のスターター歴は4年ほどだったが、正確性には定評があり、予選でも一度もフライングを出さなかった。
現在の世界大会におけるかけ声は「on your marks(位置について)」、「set(よーい)」で統一されているが、その頃は、各国の言葉で発声するのが慣例だった。
飯島は選手の気持ちを興奮させないように声を絞った。
「位置について……」
6万人の静寂が神宮の夜を包んだ。
「50mぐらい走った。嬉しくてね」
この日、東京ドームでは巨人対大洋の試合が行われていたが、日本テレビは試合の途中でオーロラビジョンにこのレースの模様を映し出した。巨人戦よりも価値がある、そう印象付けるための演出だった。
決勝は、どの選手もいつも以上に時間をかけてスタートの準備をした。3コースにバレル、5コースにルイス。およそ35秒後、全員がスタート台に足をかけたのを見計らい、飯島は今度は、選手の気持ちをやや高めるよう強めに言った。
「よーい」
8人の腰が持ち上がる。約1.5秒後、号砲が響いた。
肉眼では、全員がほぼ同時にスタートを切った。完璧なスタートだった。「(これで)終わった……」という余韻に浸るのも束の間、飯島の身体を歓喜が駆け抜ける。
「世界記録が出たというアナウンスがあってね。拍手しながら、ゴールに向かって、50mぐらい走った。嬉しくてね」
じつはこのスタートには2つの「ファインプレー」が隠されていた。