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「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ” 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/05/29 11:03

「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ”<Number Web> photograph by AFLO

1983年、テリー・ファンクにコブラツイストを仕掛ける鶴田

再評価された“善戦マン”鶴田の非凡さ

 しかし現在では、その“善戦マン”時代の試合こそが、鶴田の非凡さを証明するものだったと再評価されている。当時、全日本の後輩で行動を共にすることが多かった越中詩郎は、その時代の鶴田をこう語っている。

「ジャンボさんは特別ですよ。だって、どんなに鳴り物入りでこの世界に入ってきた人だって、最初はみんな苦労しているわけじゃないですか。同じようにオリンピックの代表選手で、アマレスからプロレスに転向した長州(力)さんだって、谷津(嘉章)さんだって最初はなかなか芽が出なかったし。そういうアマチュアの実績がない俺なんか上に行くまで何年かかったのかって話ですよ。それがジャンボさんは入ってきてすぐメインイベンターだからね。

 体格だって身長1m90cmを軽く超えてて、あんなバランスのいい人いないですよね。身体のバネが凄いし、スタミナだって無尽蔵にあったから。僕がびっくりしたのは、昔の大阪府立体育会館での試合ですよ。夏はクーラーが効かなくてテレビのライトもあるから、リング上は軽く40℃以上。下手したら50℃近くあるわけですよ。それを『じゃあ、越中くん。ちょっと行ってくるかね」って言ってリングに向かって、ビル・ロビンソンと60分フルタイム闘ってきたもんねえ。それで涼しい顔して『今日はまあまあだったね』なんて言ってるんだから。すごいなあと思いましたよ。

 誰だってジャンボさんには一目置くでしょう。スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディとやったって、ぜんぜん引けをとらないもんね。そんな日本人選手いないよ。だから僕のプロレスのキャリアの中で、入門してから何年間かジャンボさんと同じ屋根の下ですごしたっていうのは、本当に貴重な体験だったと思いますよ」

「怪物・ジャンボ鶴田」はファンの心の中に…

 ジャンボ鶴田がその実力を本当の意味でファンに認められるのは、80年代後半、長州力、天龍源一郎、三沢光晴らとの抗争で、外国人相手に闘っていた時には見えなかった鶴田の本当の強さが、日本人同士での闘いで明確になってから。

 しかし、ようやくその実力がファンから正当に評価されるようになってすぐ、鶴田は1992年にB型肝炎を発症。長期欠場を経て約1年後にリングに復帰をはたしたが、鶴田に用意されたカードは前座の6人タッグマッチという体への負担が少ない試合だった。「怪物・ジャンボ鶴田」はもうそこにはいなかったのである。

 あの恐ろしいまでに強く、常に余裕しゃくしゃくだった鶴田の姿は、ある日突然、永遠に観ることができなくなってしまった。だからこそプロレスファンは、記憶の中のジャンボ鶴田を今も追い続けているのだ。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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