ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/05/29 11:03
1983年、テリー・ファンクにコブラツイストを仕掛ける鶴田
ジャイアント馬場からの“厳しい宣告”
これだけを見ると、まさに苦労を知らないエリートだが、実際はそうではない。鶴田はデビュー前、馬場から「この航空券は片道キップだからな」と「“エース候補”として売り出すかどうかは、米国修行の成果次第」と宣告されてから渡米。テキサス州アマリロの安モーテルに長期滞在しながらファンク道場で修行の日々を送り、73年3月24日、エル・タピアなる無名レスラー相手にデビュー。お世辞にも華やかとは言えないデビュー戦だったのだ。
しかも当時のファイトマネーは1試合わずか15ドル。しばらくすると50ドルになったが、宿泊費、移動費、食費はすべて自腹であり、まさにギリギリの生活。当時、アマリロで共に修行に励んだスタン・ハンセンと日本から送ってもらった即席麺で空腹をしのぐ日々だったという。
そんな中でも鶴田は、73年5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキで師匠ドリー・ファンクJr.の持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦するなど、半年間で150試合もの実戦経験を積み、10月に帰国。10月6日のムース・モロウスキー戦を挟んで、10月9日蔵前国技館で行われた鮮烈な日本デビューは、ただ、お膳立てされたものではなく、アマチュアレスラーから、プロレスのメインイベンターへと短期間で変貌を遂げた鶴田が、自力でつかみ取ったものだったのだ。
ついに見せた“トップレスラーの証明”
そして60分3本勝負で行われた、ドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクvsジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナルタッグ選手権で鶴田は、テリーを高角度のジャーマンスープレックスで仕留めて一本目を先取。2本目はテリーに取り返され、最終的に時間切れ引き分けに終わったが、トップレスラーを相手に堂々と渡り合い、自らもトップレスラーとしての実力があることを証明したのだ。
その後も鶴田は、世界のトップレスラーたちと互角以上の闘いをつねに見せ、馬場の後継者、全日本プロレスの次期エースの座を確固たるものとしていった。しかし、その一方で、当時“世界最高峰”と呼ばれたNWA世界タイトルマッチなどでは、王者と互角に闘いながら、ベルトを奪うまでには至らぬ試合が続き、今度は“善戦マン”と揶揄されてしまう。
当時の鶴田の立場は、あくまで馬場に次ぐ全日本のナンバー2。超一流の外国人レスラーたちは、“2番手”の男に決してピンフォールを許さなかったのである。