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「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ” 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/05/29 11:03

「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ”<Number Web> photograph by AFLO

1983年、テリー・ファンクにコブラツイストを仕掛ける鶴田

13歳での挫折、目標は「オリンピック出場」へ

 そして故郷に戻った鶴田を待っていたのは、「稽古がキツくて、ひと夏で戻ってきた根性なし」という、地元の人たちの誹謗中傷と冷たい視線だった。いくら事情を説明しても周りの目は変わらず、13歳の少年は心を痛めた。そして「いつか見返してやりたい」という思いから、鶴田の次の目標は「オリンピック出場」へと変わったのだ。

 高校に進み、その長身を活かすためバスケットボール部に入った鶴田は、2年連続で高校総体に出場。中央大学に進学すると、1年生で早くも日本代表候補に選ばれた。しかし前回のメキシコシティ五輪にも出場できていなかった当時の日本代表のレベルを鑑み、五輪出場を憂慮した鶴田はバスケットボールにも見切りをつける。

相撲→バスケ→レスリング…異色すぎるエリート経歴

 あくまで五輪出場が目標の鶴田は、ここでアマチュアレスリングに転向。しかし、一つの道を究めることが美徳とされた当時のスポーツ界で、鶴田の考えはなかなか理解されなかった。「バスケットから逃げてきた人間に、レスリングなどできるはずがない」と、レスリング部入部を拒否されてしまったのだ。

 それでも鶴田は、社会人練習生に門戸を開いていた自衛隊体育学校で練習を開始。1年後には社会人選手権3位。翌年の全日本選手権では、フリースタイルとグレコローマンの100kg超級で優勝。そして大学4年時に全日本選手権2連覇を果たし、ついにミュンヘン五輪代表に決定。鶴田は体育会系のエリート街道とはまったく別の自ら切り開いた道で、五輪代表の座を勝ち取ったのだ。

 そしてミュンヘン五輪後、鶴田は1972年に全日本プロレス入団を発表すると、すぐに渡米。テキサス州アマリロのファンク道場で修行を積み、翌73年に凱旋帰国を果たすと、10月9日蔵前国技館でジャイアント馬場と師弟コンビを組み、米国での師匠であるドリー・ファンクJr.&テリー・ファンクの持つインターナショナルタッグ選手権に挑戦した。

【次ページ】 ジャイアント馬場からの“厳しい宣告”

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