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《12年前のダービー秘話》「新馬戦は負けるかもしれないけど…」エイシンフラッシュが“破格の末脚”で勝利、結実した“我慢の馬づくり”とは
text by
井上オークスOaks Inoue
photograph byKeiji Ishikawa
posted2022/05/26 11:00
2010年の日本ダービーを制したエイシンフラッシュと内田博幸騎手。上がり3ハロン32秒7という破格の末脚を繰り出して力強く差し切った
エイジアンウインズでヴィクトリアマイル(2008年)を、サクセスブロッケンでフェブラリーステークス(2009年)を制し、実績を積み上げていく藤原厩舎に、黒鹿毛の2歳馬――エイシンフラッシュがやってきた。2009年7月、阪神競馬場の芝1800mで、デビュー戦を迎える。
「オーナー(故・平井豊光氏)と社台ファームに『新馬戦は負けるかもしれないけど、出していいですか?』とお願いして、使わせてもらったんです」
実際、エイシンフラッシュは伸び切れず6着に沈んだ。
「2歳の夏に実戦を経験しておくことで、『来年5月のダービーの頃には、いいパフォーマンスができる』という計算がありました。実戦を使うことで、肉体的にも精神的にも成長する。人間と同じで、経験によって得るものは大きいから」
皐月賞をステップにダービーに向かう
新馬戦を終えたエイシンフラッシュは、放牧を経て藤原厩舎に帰厩し、10月に未勝利戦(京都、芝2000m)を勝ち上がった。そして2010年1月、京成杯(中山、芝2000m)を制覇。その後、出走を予定していた若葉ステークス(阪神、芝2000m)は、鼻肺炎による発熱が原因で回避した。幸い大事には至らず、4月の皐月賞へ向かうことになった。藤原はアクシデントによるローテーションの変更を、悲観してはいなかった。むしろ、皐月賞をステップにダービーに臨めることを、プラスに捉えていた。しかもエイシンフラッシュは皐月賞で、11番人気の低評価を覆して、3着に食い込んだのである。
ダービーの4日前。関東所属の内田博幸騎手は、滋賀県の栗東トレーニング・センターに駆けつけた。しかしエイシンフラッシュの追い切りには騎乗しなかった。藤原は内田に、「状態がよすぎて速いタイムが出てしまうかもしれないから、こっちで調整しておくよ」と伝えた。内田は藤原や厩舎スタッフと雑談して、栗東をあとにしたそうだ。
「藤原先生には、『ダービーを勝ってこい』とだけ言われたんです。先生の言葉から、皐月賞のときよりも格段に状態がよくなっていることが伝わってきました」