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《12年前のダービー秘話》「新馬戦は負けるかもしれないけど…」エイシンフラッシュが“破格の末脚”で勝利、結実した“我慢の馬づくり”とは
posted2022/05/26 11:00
text by
井上オークスOaks Inoue
photograph by
Keiji Ishikawa
1983年。高校3年生のときに見た日本ダービーが、強く印象に残っている。藤原英昭少年の父・玄房は腕利きの厩務員であり、皐月賞で2着だったメジロモンスニーを担当していた。追い込み馬のモンスニーはダービーの直線でも、鋭く脚を伸ばした。しかし先に抜け出した皐月賞馬、ミスターシービーをとらえることができず、ダービーでも2着だった。
「ダービーを勝てなくて残念でしたが、ミスターシービーは本当に強かった」
のちにミスターシービーは菊花賞も制し、三冠を達成した。その翌年、藤原少年は京都の同志社大学に進学。馬術競技のスター選手として活躍しながら、こんなビジョンを描いていた。
「今は馬術を通じて、馬に関する知識や技術を身につけよう。それを将来、競馬の世界で発揮するための下準備や」
当時、競馬界と馬術界の間には、大きな隔たりがあった。
「日本では馬が身近な存在ではないから、今でも馬術と競馬を別物と考える人が多いですね。逆に馬と一緒に暮らしてきた騎馬民族は、『乗馬も競走馬も、同じ馬』と考える。世界のスタンダードは後者です」
「ダービーに馬を出すことは、一番の広告になる」
藤原は大学卒業後、星川薫厩舎の調教助手を経て、調教師免許を取得し、2001年3月、35歳で厩舎を開業した。そして初出走初勝利。さらに開業2カ月後に、星川厩舎から引き継いだ3歳馬テンザンセイザで京都新聞杯を制し、重賞初勝利を挙げた。
「ダービーはみんなの目標であり、みんなが注目しているレース。だからダービーに馬を出すことが、一番の広告になる。名前を売ることができるわけです。だからテンザンセイザという力のある馬を託されて、馬主さんと馬に貰ったチャンスを生かすことは、自分にとって大きな仕事でした」
“世界のスタンダード”を目指す、気鋭の新人調教師。しかし当時の藤原は無名であり、ツテも乏しかった。
「どんなに理路整然と馬づくりを語ったところで、結果がすべてなんです。だから『なんとしてもテンザンセイザをダービーに出す』という気持ちで、スタッフ一丸となって、ダービー出走を目指しました。必死やったなあ」
そして藤原厩舎は開業からわずか3カ月で、所属馬をダービーに送り出した。勝ったのはジャングルポケット。テンザンセイザはしっかり見せ場を作って6着だった。