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“伝説の革命家”フィデル・カストロがアントニオ猪木「亡き愛娘」の思い出に涙した夜「赤ら顔の2人が旧友のように肩を組んで…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/05/01 17:01
1990年3月、筆者がキューバで撮影したフィデル・カストロ議長とアントニオ猪木の2ショット。2人の友情はその後も長く続いた
“伝説の革命家”が流した涙の理由
後日、盃を傾けながら2人でどんな話をしたのか猪木に聞くと、日本酒を重ねたカストロは革命の盟友チェ・ゲバラとの思い出を語り出したという。
「俺は、つい死んだ娘の話までしてしまった。そうしたら、あのカストロさんが涙を流してくれたよ」
1964年、アメリカ武者修行中の猪木は孤独な時間を過ごしていた。そんな時、友人のホームパーティーに呼ばれた。
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その中にダイアナ・タックさんがいた。出会った瞬間から感じるものがあったようで、猪木はポートランドに家を借りて一緒に暮らし始めた。
翌年、女の子が生まれた。猪木の母親の名前をもらって、デブラ・文子と名付けた。
1966年、猪木は豊登と東京プロレスを旗揚げし、ダイアナさんと文子ちゃんも日本に来てくれたが、籍は入れなかった。この時、猪木は「国際結婚というものの難しさを感じた」という。
第1章で私が群馬県高崎市で初めて新日本の打ち上げに参加し、猪木に挨拶した時のことを書いた。この席で猪木の後援者の一人だった群馬県で自動車業を営んでいる絹川昭二さんとも知り合ったのだが、別の機会に絹川さんと会った時、ダイアナさんの話題になった。
「昔、猪木が巡業に出ていた時、ダイアナは娘を連れて俺の家に来ていたんだよ」
つまり猪木が東京に不在の間、奥さんと娘を絹川さんに預け、面倒を見てもらっていたということだ。
猪木によると、日本での生活にダイアナさんは戸惑っていたようだ。「生活習慣や文化の違いが彼女には理解できなかったのだろう」と猪木は回想する。
ダイアナさんは家族で食事をしている時に、サインを求めてくるファンに猪木が応対することも不満だったようだ。サインがほしいならコーヒータイムまで待つべきだと思ったのかもしれない。それがアメリカでは常識だからだ。
しかし、それが日本では通用しない。さらに猪木は巡業の旅に出ると、なかなか帰ってこない。
結果、ダイアナさんは猪木の元を離れる。本土には戻らなかったが、娘を連れてハワイに行ってしまった。