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日本中を震撼させた「あさま山荘事件」から50年…現場のすぐ隣に、事件解決に役立ったプロレス道場があった?《馬場、猪木も使用》 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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posted2022/02/28 06:00

日本中を震撼させた「あさま山荘事件」から50年…現場のすぐ隣に、事件解決に役立ったプロレス道場があった?《馬場、猪木も使用》<Number Web> photograph by KYODO

戦後昭和史に刻まれる「あさま山荘事件」の現場となった河合楽器の保養所。すぐ隣には日本プロレスの道場があった

 日本プロレスがこの地に練成山荘をオープンしたのは昭和43年8月のこと。

 この時期の日本プロレスはジャイアント馬場とアントニオ猪木の二枚看板時代が到来しつつあり、同年2月からは金曜夜8時からのプロレス中継が毎週放送(それまでは隔週放送だった)となり、翌年からNETテレビ(現・テレビ朝日)での中継がスタートする直前とあって、ちょっとしたバブル状態。力道山時代をも上回る第2次黄金時代を謳歌していた。

 当時、こうした好景気に沸く企業などが軽井沢地域に別荘を保有することが流行っており、レイクニュータウンの開発も進められていた。数年後に大事件の舞台となるあさま山荘は、日本プロレスが練成山荘をオープンした翌年(昭和44年)に河合楽器が建設している。

 日本プロレスは1500坪の土地を購入し、総工費2000万円をかけて練成山荘を建設。8月20日の長野・小諸市営球場での興行を控え、試合前の選手が練成山荘を訪れ、報道陣も招きつつ開所式が行われている。

 開所式にはエースのジャイアント馬場、アントニオ猪木、吉村道明、大木金太郎、若手選手の育成を任されていたコーチのカール・ゴッチ、ユセフ・トルコレフェリー、日本プロレス協会の平井義一会長らが参加している。

遊び場も逃げ場もない「鍛錬の場」だった?

 練成山荘では同年9月から早速「カール・ゴッチ道場」が開かれた。周囲はランニングに最適な山道だらけ。遊び場も逃げ場も少ない練成山荘は、若い選手にとって格好の「鍛錬の場」となっていたと思われるが、当時、別荘地開発と同時にゴルフ場開発が進められていたことを考えると、アントニオ猪木が後年、口を尖らせつつ訴えていた「ダラ幹(堕落した幹部の略語)どもはゴルフに麻雀ばっかりだった」の言葉通り、鍛錬の必要がない幹部たちの「昼はゴルフ、夜は麻雀」と、オトナの福利厚生の場として機能していた可能性も高い。

【次ページ】 鉄球作戦の様子を気にしていた馬場

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