酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「日本シリーズ4連投、3年連続30勝やシーズン42勝」は知ってるが… 神様、仏様、稲尾様の“光るスライダーと意外な日本記録”とは
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2022/02/23 11:01
1958年日本シリーズを前にした稲尾和久と長嶋茂雄。このシリーズで「神様、仏様、稲尾様」の言葉が誕生する
稲尾自身もこの年はキャンプでの始動が遅かった。そして5月中旬から7月中旬まで故障のために戦線離脱。オールスターにも出場できなかった。
「もはや限界か」と言われた1961年、稲尾和久は球史に残る空前の「シーズン42勝」という大記録を打ち立て、甦るのだ。
投手としての稲尾は、技術的にはシーズン42勝を成し遂げた時期に完成形となる。プロ入り当初の稲尾は、自身では変化球を投げることを意識していなかったが、スリークオーター気味に投げる球がナチュラルに変化し、スライダーやシュートになっていた。
しかし1957年には毎日の強打者、榎本喜八対策としてフォークボールを投げるようになり、1961年にはスライダーが「完成した」という。
「光る」スライダーの完成と、意外な日本記録
それまでのスライダーは「曲がっていた」のだが、この年から意識して「曲げていた」ことになる。角度が急で鋭く変化する稲尾のスライダーを、当時南海の外野手だった大沢啓二(のち日本ハム監督、解説者)は「光る」と表現した。
「キラッと光って、消える。消えるやつは打てねえな」
稲尾の投球は「速い」と評されることはあまりなかった。制球力が良くて切れのある変化球を外角、内角の打者の泣き所に丁寧に投げ分けることができたのだ。
同時に「勝負に徹した投球ができた」ことも大きいのではないかと思われる。
稲尾はキャリアで5回も「リーグ最多敬遠」を記録している。42勝を挙げた1961年は、NPB記録である20敬遠を記録。リーグ最強投手にしては全く意外な記録だが、走者を背負っても次打者を打ち取れる絶対的な自信が、強打者との勝負を避けて「歩かせる」選択につながったのだろう。
この年の稲尾は「相手打者がスローモーションで動くように見えた」とも言っている。心身ともに絶頂期だったのだろう。
「火の車」の投手陣で来る日も来る日も投げた
1961年、西鉄ライオンズの投手陣は「火の車」の状態だった。同期の畑隆幸は13勝を挙げたが、前年までローテを維持した島原幸雄、中島淳一が衰え、救援の近藤光郎もリタイアした。
三原脩監督の後任の川崎徳次監督は「すまんのう、お前しかおらんのじゃ」と言って稲尾を来る日も来る日もマウンドに上げた。
この年の78登板は、NPB記録。2001年に広島の菊地原毅が並んだが稲尾は404回を投げたのに対し同じ試合数の菊地原は51.1回。「記録の神様」と言われ、稲尾とも親しかった宇佐美徹也は「こんなことがあっていいのか」と怒ったものだ。
例えばこの年6月の稲尾の登板は以下のようになっている。