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「猪木さん、俺は…」新日本の転換点“2・1札幌事変”とは何だったのか? “蝶野vs三沢”夢のカード実現の知られざる舞台裏
posted2022/02/15 17:01
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
「冬の札幌では何かが起こる」
1984年2月3日、札幌・中島体育センターで藤原喜明が、藤波辰巳戦のリングに向かう長州力を花道で突如襲った「雪の札幌テロ事件」以来、新日本プロレスでは毎年2月に行われる札幌大会のたびにそう言われ続けてきた。
実際、これまで何度も事件と呼べるものが起こってきたが、その中でも今から20年前、2002年2月1日に北海道立総合体育センターで起きた「2・1札幌事変」は、今振り返ると新日本にとって分岐点にもなったとくに大きな事件だったと言える。
当時はK-1、PRIDEなどが人気を博す格闘技ブームの真っ只中。プロレス界は苦しい時代を迎えていた。そんな中、新日本の実質的なオーナーであるアントニオ猪木は格闘技路線を推し進め、新日のレスラーを次々と総合格闘技のリングに送り込んでいった。
しかし、プロレスと総合格闘技は似て非なるもの。プロレスラーの多くは総合のリングで敗れ、新日本はファンの求心力を急速に失っていく。それでも格闘技路線をやめない猪木に多くのレスラーが反発。ついに武藤敬司が新日本を離脱し、小島聡、ケンドー・カシン、さらには中枢社員数名を引き連れて全日本プロレスに移籍。新日本は危機的状況に陥った。
「猪木さん、俺はこのリングでプロレスがやりたいんですよ!」
その時、立ち上がったのが蝶野正洋だ。蝶野は2・1札幌大会に来場した猪木をリング上に呼び入れ対峙。観客の前で「猪木さん、俺はこのリングでプロレスがやりたいんですよ!」と、格闘技路線からの方向転換による新日本の立て直しを訴えた。
これに対して猪木は「おまえは、これからただの選手じゃねえぞ。プロレス界を全部仕切っていく器量になれよ!」と、電撃的に現場監督に任命する。
00年代のプロレス界にとってエポックであったこの一件について、以前筆者が蝶野正洋にインタビューした際、こう振り返ってくれた。
「あの時、武藤さんが新日本のスタッフも引き連れて全日本に行ったことで、会社が空中分解寸前だったんだよね。でも、そんな状況にも関わらず周りは誰も動かない。これはあとでわかったことだけど、長州さんも永島のオヤジ(永島勝司=新日本プロレス取締役・当時)も同じように新日本離脱を目論んでいたわけだから、武藤さんたちの行動を黙認していたし、新日本再建のために動くわけがないんだよ。
当時俺はそんな派閥闘争に全く関心がなかったから、『なんでみんな動かねえんだ! この状況はやばい、新日本が大変なことになる』とただただ危機感を募らせてね。会社内部を立て直すためにも、一度、猪木さんと話し合わなきゃいけないと思ったんだ。だけど時間もないし、会議室で話し合ってもあとでひっくり返されることなんかしょっちゅうだったから、『これはリング上で猪木さんに直接訴えて、既成事実を作るしかない』と思って、リングに上がってもらったんだよね」