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「猪木さん、俺は…」新日本の転換点“2・1札幌事変”とは何だったのか? “蝶野vs三沢”夢のカード実現の知られざる舞台裏 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/02/15 17:01

「猪木さん、俺は…」新日本の転換点“2・1札幌事変”とは何だったのか? “蝶野vs三沢”夢のカード実現の知られざる舞台裏<Number Web> photograph by AFLO

2002年5月2日、東京ドームにて行われた蝶野正洋vs三沢光晴の“頂上決戦”

「蝶野vs三沢」夢のカード実現までの知られざる真相

 そして蝶野は重大な決断を迫られる。当時、大所帯の新日本はドーム大会の収益で会社を回しているところがあり、大会中止となれば会社の経営に甚大な影響を与えてしまう。とはいえ大会を決行しても大赤字を出してしまえば同じこと。その時、蝶野が頼ったのが、新日本のライバル団体プロレスリング・ノアの社長、三沢光晴だった。

「開催まで2カ月を切って、今から新日本の力だけでドームを満員にする目玉カードを作ろうっていっても不可能な話だから。藁をもつかむ思いで三沢社長に電話して、『急な話で本当に申し訳ないけど、ウチのドームで自分と一騎打ちをやってほしい』ってお願いしてね。その時点でドーム興行をやるかやらないかギリギリのタイミングだから、タイムリミット1週間で返事がこなかったら、もう大会中止を発表しようと思っていたんだ」

 蝶野と三沢の一騎打ちは、それまで一度も実現したことがない“超”夢のカード。これが実現すれば、チケットが大きく動くことは間違いない。しかし、裏を返せばライバル団体のトップ同士の試合は、実現までにさまざまな障害があるからこそ、これまで実現しなかったのだ。当時、ノアは日本テレビでレギュラー放送されており、三沢がテレビ朝日系の新日本のリングに上がるのは不可能と思われた。

「そしたら俺が電話した30分後くらいに三沢社長から『いいよ。やるよ』っていう電話をもらったんだよ。あんな短時間だから、たぶん周りには聞かず、いろんな調整は後回しにしてでも社長の一存で決断してくれたんだと思う。俺が本当に切羽詰まった状況で電話をかけてきていることを理解してくれたんでしょう。本当にありがたかった。あそこでドームが中止になっていたら、きっと新日本は潰れてたよね」

「三沢社長が業界を救ってくれたんですよ」

 この三沢の男気によって、5・2東京ドーム大会は無事に開催。準備期間が極めて短かったにもかかわらず、超満員となる5万7000人もの観衆を動員した。そしてテレビ局同士の問題も蝶野vs.三沢を特番での放送から外し、後日放送することで解決。新日本は、なんとか盛大な形で30周年の記念大会を迎えることができたのだ。

「崩壊危機のスキャンダルまみれだった新日本が、あそこで三沢社長が出てくれたことによって、ノアとの交流スタートというポジティブな話題に変えることができた。そして夏のG1も開催できる流れになったけど、あの話題がなくてドームも中止になっていたら、その後の興行どころじゃなくなってた。それを三沢社長はわかってたんですよ。だから本来ノアにとって新日本は競合会社なんだけど、プロレス界全体のことを考えて決断してくれたんだと思う。三沢社長が業界を救ってくれたんですよ」

 こうして30周年での崩壊危機をなんとか回避した新日本だったが、その後も冬の時代は長く続いた。それを打破して、新日本を再浮上に向かわせたのは、あの2002年2・1札幌のリング上で、猪木と蝶野のやりとりが終わったあと、猪木と若手選手たちが対峙した通称「猪木問答」の際、「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」と力強く宣言した棚橋弘至の奮闘だった。

 そういった意味でも20年前のあの日が、今年50周年を迎えた新日本が再興に向かう原点だったのだ。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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