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「いまはやりきった気持ち」ホンダF1復活の立役者・山本雅史MD57歳の退職後の新たな挑戦とは<実は入社時はエンジニア>
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2022/01/14 17:01
アブダビGPでタイトルを獲得し、レッドブル代表のクリスチャン・ホーナーと喜びを分かち合う山本MD
オーストラリア大陸を縦断するソーラーカーレース「ワールド・ソーラー・チャレンジ」に参戦するため、本田技術研究所の若手エンジニアを中心にしたプロジェクトチームが結成され、山本もその一員となった。最初に参加した90年にいきなり2位を獲得したホンダは、2度目の参加となった93年にそれまでの記録をすべて塗り替えて新記録で優勝を果たした。このときの山本は、ソーラーカーの開発だけでなく、ドライバーも担当した。20代前半にカートの全日本選手権で腕を鳴らした経験を持つ山本だったが、この経験は組織のプロジェクトを背負って走るドライバーの気持ちを理解する良い機会となった。
その後、山本は世界中の2輪、4輪ファンから注目を集める世界最速を目指すイベント「ボンネビルスピードウィーク」に挑戦する企画を提案。16年に見事世界記録を樹立した。そのときのマネージメント力が買われ、16年からF1活動に参画することになる。しかし、山本を待っていたのは、かつてないほどの逆風だった。
窮地のホンダを救った決断
第4期F1参戦3年目の17年、マクラーレン・ホンダの成績は再び低迷し、マクラーレンとの関係は悪化。ホンダはF1活動存続の危機に直面した。成績不振によるスポンサー離れによってチーム経営が厳しくなったマクラーレンは、あろうことかその損失分はホンダが補填すべきだとプレッシャーをかけてきた。F1に復帰して3年が経過してもなかなか結果が出ないこともあり、ホンダの経営陣の中には「5年間の契約があるマクラーレンに違約金を支払って、早期にF1から撤退」を唱える者もいたという。
板挟みになりながらも、山本は必死に耐えた。「このまま未勝利のままホンダがF1から撤退したら、ファンが悲しむだけでなく、エンジニアが勝利という成功体験を経験することなく終わることになる」のをどうしても避けたかったからだ。
最終的に山本は、損失分を補填することも違約金を発生させることもなく、マクラーレンとの関係を17年限りで解消し、かつホンダのF1活動を継続することに成功。さらに18年からトロロッソへ、そして19年からはトップチームであるレッドブルへパワーユニットを供給する契約を締結し、ホンダ復活の足掛かりを築いた。