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日本ハム新ボールパーク構想はいつ生まれたのか?《総工費600億》巨大な夢に挑む男たちの舞台裏「吉村さんなくして語れない」 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byES CON FIELD HOKKAIDO

posted2021/11/30 11:01

日本ハム新ボールパーク構想はいつ生まれたのか?《総工費600億》巨大な夢に挑む男たちの舞台裏「吉村さんなくして語れない」<Number Web> photograph by ES CON FIELD HOKKAIDO

2023年春に開場する北海道日本ハムファイターズの新スタジアム「エスコンフィールドHOKKAIDO」のパース図

 構想の原案が生まれたのは、2010年夏の、ある日曜日のことだった。その日、前沢は折に触れてビジョンを共有してきた三谷仁志(現FSE事業統轄本部副本部長)とともに、休日の球団事務所にこもった。閉め切った一室、スポーツビジネスの世界で知見を積んできた2人はホワイトボードにアイデアを書き出しながら、レポートをまとめていった。

 翌月曜日の経営者会議、前沢と三谷は40ページに及ぶ企画書を提出した。「ファイターズの今後を考える」と題されたそのレポートの中にはスタジアムを中心にしたスポーツ都市構想が記されていたが、それは“将来的な課題”として棚上げされた。スタジアムを、それも街ごとつくろうなどとは、まだ誰も想像すらしていなかった。

「創造できないものは、想像できない――」

 これは、前沢がこれまでの人生で獲得した真理の1つである。逆に言うと鮮やかに想像することができれば、形にすることができる。そう信じてきた。

 そして600億円の巨大事業においては、少年の夢のように朧げなものではなく、確固たる採算に基づいた想像でなければならない。結果として前沢にはそれが描けた。なぜか――。

「自分ひとりでは何もできなかった。一緒にやってくれる仲間と、理解して、協力してくれる人たちがいたからこそ、ここまできました」

 前沢はボールパーク事業について、こう語る。

 財務のスペシャリストである三谷をはじめ、プロジェクトチームのメンバーや球団内外の協力者がいなければ、青写真は完成しなかったし、着工に漕ぎ着けることはできなかった。

 そうした「想像」と「創造」とを繋いでくれた人物の中の大きな1人に吉村浩がいる。

2005年にGM補佐に就任した吉村

 吉村は新聞記者、パシフィックリーグ事務局、米大リーグのデトロイト・タイガース、阪神タイガースを渡り歩いた後、2005年にファイターズのゼネラルマネージャー(GM)補佐に就任した。2015年からはGM兼チーム統轄本部長となった。選手に関わる項目を数値化したベースボールオペレーションシステム(通称BOS)を導入し、スカウティングと育成の二本柱を確立したことでも知られている。

 吉村が球団にやってくるまでのファイターズは創設から49年間でリーグ優勝が2度しかなかったが、吉村が編成に携わってからは17年間で5度、ペナントレースを制している。

 この秋、稲葉篤紀のGM就任にともなって、チーム統轄本部の仕事に専念することになったが、北海道移転後の新庄劇場に始まり、絶対的エースのダルビッシュ有、二刀流の大谷翔平が主役となるチーム構成は吉村が舞台裏でデザインしたと言われている。文字通り、プロ野球チームとしての北海道日本ハムファイターズをつくってきた人物だ。

 前沢はそんな吉村に年に一度、訊くことがある。

【次ページ】 「吉村さんは優勝するともしないとも言わない」

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