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3歳で全盲も「カズを“見る”のは大好きだった」ブラジルのブラインドサッカー初代10番が語る《相手の“聴覚すら奪う”浮き球パス》の極意とは 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2021/09/04 11:02

3歳で全盲も「カズを“見る”のは大好きだった」ブラジルのブラインドサッカー初代10番が語る《相手の“聴覚すら奪う”浮き球パス》の極意とは<Number Web> photograph by Getty Images

5人制のブラインドサッカーでパラリンピック4連覇、いまだ無敗を誇るブラジル。その強さの源とは?

MS:もちろんだ。素晴らしいテクニシャンで、スピードもあるドリブラー。「ガリンシャ・ジャポネス」(日本のガリンシャ)と呼ばれて人気があった。スタジアムで彼のプレーを“見る”のが大好きだった。

――カズは、54歳の今も現役です。Jリーグ1部でプレーしていますよ。

MS:それは知らなかった。本当に偉大な選手。心底、フットボールが好きなんだな。

――その後の経歴は?

MS:クリチーバやサンパウロの盲学校で勉強するかたわら、校内のフットサルチームでプレーした。ただ、当時はまだ視覚障害者のための大会がなく、仲間内で楽しむだけ。走ることも大好きで、陸上競技のトレーニングもした。

 高校卒業後、パラナ連邦大学の経済学部に入った。でも、パラナ州スポーツ省で身体障害者にスポーツを推奨する仕事を始め、その仕事に熱中して大学を中退。1984年、ブラジル視覚障害者スポーツ協会を立ち上げ、会長を務めた。

パラリンピックでは陸上競技で複数回入賞

――陸上競技やゴールボールの選手としても活躍したそうですね?

MS:当時はまだフットボールがパラリンピックの正式競技になっていなかったので、1984年大会(ニューヨークとストーク・マンデヴィル=イギリス=で分散開催された)の陸上競技に出場。ブラジル選手団の旗手を務めた。走り幅跳び、100m、400m、800mに出場し、走り幅跳びで5位、100mで8位に入賞した。1988年ソウル大会にも出場し、やはり走り幅跳びと100mで入賞した。

 ゴールボールは、1985年に私がブラジルへ導入し、1996年から1999年まで国内の大会に出場した。

――その後のブラインドサッカーのキャリアは?

MS:1988年、ブラジルで初めて視覚障害者のフットサル代表が組織され、スペインで行なわれた国際大会に参加した。私も招集され、背番号10を付けてプレーした。今、世界最高の選手と言われるリカルジーニョがブラジル代表のエースナンバーを付けているが、ブラジル代表の初代の背番号10は私なんだ。

 当時、この競技が盛んだったのは、南米ではブラジル、欧州ではスペインだった。1989年、私を含むブラジルとスペインの関係者が協議し、国際ルールを定めた。

 ブラジル代表の常連となり、1993年にブラジルで行なわれたラテンアメリカ大会に出場して優勝。3得点をあげて得点王になった。1995年にアルゼンチンで開催された大会にも出て、やはり優勝。1997年にパラグアイで開催された第1回南米選手権にも出場して優勝し、初代南米王者となった。

――どんな選手だったのですか?

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