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甲子園で負けたチームが土を集めるのは、なぜ“当たり前”になった? 63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた甲子園の土」 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/08/28 17:02

甲子園で負けたチームが土を集めるのは、なぜ“当たり前”になった? 63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた甲子園の土」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2018年の夏の甲子園。閉会式のあと、敗れた吉田輝星(金足農業)と優勝した柿木蓮(大阪桐蔭)が並んでマウンドの土を集めた

 当時、沖縄はアメリカの統治下にあっただけに、首里高ナインは観衆から大歓迎を受ける。残念ながら1回戦にして福井の敦賀高に0-3で完封負けを喫したが、試合終了後に選手たちがグラウンドの土を持ち帰ろうと袋に詰める姿が感動を呼んだ。ある新聞のコラムは《ああ、オキナワの少年たちよ。その土をたいせつに持ってかえりたまえ。そしていつの日か諸君の郷土が日本の領土に復帰するまでその土に一輪の花を植えてくれたまえ。いまの日本人は沖縄を外国だなんてだれも思っていない。沖縄はレッキとした日本の一県だ》と記した(『毎日新聞』1958年8月11日付夕刊)。

 しかし、沖縄に船で戻った選手たちは、日本に対し沖縄はまだ「外国」だという厳然たる現実に直面する。甲子園の土は、病虫害防止のための植物防疫法により持ち込みが認められず、検疫官の手で海に捨てられてしまったのだ。検疫所のほうでも何とか土を持ち込ませてやれないか、選手たちの帰る前に何度も検討したが、法はどうにもならなかったらしい。結果的に非情な対応となり、日本全国から批判の声が上がった。そのなかで日本航空の1人の客室乗務員が、球児たちへ甲子園の土の代わりに小石を贈りたいと球場側に申し出て実現する。ほかにも兵庫県芦屋市の陶芸家がやはり球場側の協力を得て、甲子園の土で本塁ベースをかたどり、球場のツタの葉でつくった灰を釉薬にして塗り込んだ焼き物を首里高に贈っている。

 その後の沖縄勢のなかには、1960年春のセンバツの那覇高のように、琉球大と連携して「研究用」の名目で甲子園の土を持ち帰ったところもある。だが、大半は検疫の壁に阻まれた。沖縄の本土復帰のわずか1カ月半ほど前、1972年春のセンバツに出場した名護高も例外ではなかった。しかし同チームは試合のあと、復帰後に土を贈ってもらう約束を球場長と交わし、5月の本土復帰とともに念願がかなえられる。

テレビ中継の影響「スパイクケースに約1キロの土」

 球児たちがこぞって甲子園の土を持ち帰ることが風習化した理由にはもう1つ、テレビ中継の影響によるところも大きいように思う。

【次ページ】 テレビ中継の影響「スパイクケースに約1キロの土」

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