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甲子園で負けたチームが土を集めるのは、なぜ“当たり前”になった? 63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた甲子園の土」

posted2021/08/28 17:02

 
甲子園で負けたチームが土を集めるのは、なぜ“当たり前”になった? 63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた甲子園の土」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2018年の夏の甲子園。閉会式のあと、敗れた吉田輝星(金足農業)と優勝した柿木蓮(大阪桐蔭)が並んでマウンドの土を集めた

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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Sankei Shimbun

敗れたチームの球児たちが土を集める――夏の甲子園の印象的なシーンのひとつだ。前編では「甲子園の土を最初に持ち帰った高校球児は誰なのか」を検証した。ここでは「負けたナインがベンチ前で土を集めるのが“当たり前”になったのはいつ頃なのか」を明らかにしていく(全2回の2回目/前編へ)。

 球場の土を初めて持ち帰った球児については複数の説があった。では、現在のように負けたナインがベンチ前で土を集める光景が恒例となったのはいつなのか。

 その手がかりを得るべく、福嶋一雄が土を持ち帰った翌年、1950年以降の新聞縮刷版から大会関連の記事をたどってみたのだが、筆者の見たかぎり、少なくとも1958年春のセンバツ大会まではそのような光景を伝える記事は見当たらなかった。そもそも戦後まもなくの新聞はページ自体が少ない上、大会を伝える記事も試合の経過を伝えるのみで、試合中以外での選手の様子はほとんどわからない。例外は東京の地方版で地元の出場校を報じる記事で、たとえば1955年夏の大会では準々決勝で敗退した日大三高について、《退場していくこのチームにスタンドから「また来いよ」のかけ声がとぶ。日大三高ベンチのグラウンドボーイたちは、去り行く選手たちの腕にすがりつくように球場の出口まで送り「来年また来て…」と別れを惜しんでいた》という具合に、選手たちが退場する様子も伝えている(『朝日新聞』東京版・1955年8月16日付朝刊)。だが、そこに選手たちが土を集めたとする記述はない。

60年代になって「ごっそり持ち帰る」

 ここから察するに、少なくとも昭和20~30年代初めには、チーム全体で土を持ち帰る慣習はまだ広まっていなかったのかもしれない。それを裏づけるように、戦前から甲子園の土を整備してきた伝説のグラウンドキーパー・藤本治一郎は著書のなかで、《昔の選手は、土を持ち帰るとき遠慮勝ちにこっそり取った。(中略)しかし、二十年ほど前からは、人が取るから、わしも取って帰らな損や、とばかり、土入れ袋もちゃんと持参、ごっそり持ち帰る》と書いている(『甲子園球児 一勝の“土”』)。この本が出たのは1987年だから、それから20年ほど前となると1960年代ということになる。まさに60年代の後半のある新聞記事は、《いまでこそ、甲子園球場の土が敗れたチームの選手たちによって持帰られる姿はよく見られるが》と書き出されており(『朝日新聞』1968年8月11日付朝刊)、このころまでに風習化していたことは間違いない。

 藤本治一郎が書くとおり、かつては土を持ち帰るにしても、川上哲治や福嶋一雄のように、1人でこっそり、あるいは自分でも無意識のうちに取っていく球児が大半だったのだろう。のちの阪神の名遊撃手で、監督として球団初の日本一を達成した吉田義男もまた、京都・山城高の2年のときに出場した夏の甲子園で、北海高(北海道)に1回戦で敗れたあと、甲子園の土をそっと一握りつかむと、ハンカチにくるんで持ち帰ったという(『ベースボール・マガジン』1963年10月号)。これは1950年の大会だから、すでに前年の福嶋の話は伝わっていたのかもしれない。

63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた土」

 これに対し、チームみんなでという風習が生まれたのには、前出の高師附属中のほか、1958年夏の第40回大会に沖縄から初めて出場した首里高の影響もあると思われる。

【次ページ】 63年前の悲劇「沖縄の海に捨てられた土」

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