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19年前“無名の18歳”長谷部誠を知る先輩たち…浦和レッズ「黄金時代」山田暢久、永井雄一郎、田中達也は今何をしている? 

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近藤篤

近藤篤Atsushi Kondo

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photograph byAtsushi Kondo

posted2021/05/08 17:03

19年前“無名の18歳”長谷部誠を知る先輩たち…浦和レッズ「黄金時代」山田暢久、永井雄一郎、田中達也は今何をしている?<Number Web> photograph by Atsushi Kondo

高校卒業後、2002年~07年まで浦和レッズでプレーした長谷部誠

 当時浦和レッズのスカウトを務めていた宮崎義正(現三菱重工浦和レッズレディースの部長)によれば、長谷部に目をつけたのは2000年の12月、静岡県の国体選抜チームの合宿だったのだそうだ。面白い子がいるから一度見てみれば? 静岡サッカーに詳しい知人からの情報が始まりだった。

 そこから2カ月、宮崎はほぼ即決で長谷部の獲得に動き、翌年5月の連休明けには長谷部自身と直接話す機会を得た。その時点でもう一チーム、名古屋も長谷部に興味を示していたが、長谷部は最終的に浦和を選んだ。

 スカウトの宮崎自身が藤枝東のOBだったこと、最初に声をかけてくれたのが浦和だったこと、まあそこにはきっと長谷部誠っぽい理由があったのだろう。

 そして、ここが長谷部誠の凄いところだと思うのだけれど、彼がプロのキャリアを浦和レッズからスタートしたことは、結果的に200%正しい選択だった。

浦和レッズの「黄金時代」だった

 2002年、前任のブラジル人監督の後を継いで浦和レッズを率いることになったのは、オランダ人のハンス・オフトだった。ドーハの悲劇からすでに8年、ピッチを離れればチャーミングな人だったが、ピッチ内では相変わらず手堅い戦術を重んじる、厳格な監督だった。

 2002年、その年をスタート地点として浦和レッズは徐々に上昇軌道を描き始め、その後6年間でナビスコ杯、Jリーグ優勝、ACL優勝とタイトルを総なめにする(監督はオフトからブッフバルトそしてオジェックへと変わった)。

 ヴォルフスブルクへ移籍するまでの間、20代前半の長谷部誠は一人の若者が経験できるであろうほぼ全ての成功体験(といくつかの苦い体験)を手に入れることになる。

 日々の練習で周りにいるのは、田中マルクス闘莉王、小野伸二、三都主アレサンドロ、エメルソン、ポンテ、ワシントン、鈴木啓太……公式戦よりも紅白戦の方が大変な環境は、元々長谷部の中に眠っていた才能を一気に引き出した(ちなみに、浦和レッズが2006年にJリーグ優勝を決めたガンバ大阪戦でベンチに座っていたのは、都築龍太、坪井慶介、相馬崇人、小野伸二、永井雄一郎、田中達也、岡野雅行、全員が日本代表〔候補〕経験者である)。

山田暢久は神奈川で監督をしている

 今回の記事では、その6年間で当時のチームメイトだった、山田暢久、永井雄一郎、田中達也、の3人に、当時の長谷部誠にまつわるエピソードを聞かせてもらっている。

 『心を整える。』を読んでもわからない、3人が語る若き長谷部誠のエピソードも面白かったけれど(雑誌を読んでください)、彼と同時代に浦和レッズの栄光を共に築いた彼らの「今」も同じように面白かった。

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