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サッカーの聖地マラカナン改名騒動… 「王様ペレ」なのに大反対、背景にある“剛腕ジャーナリスト伝説”とは 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byTakuya Sugiyama/JMPA

posted2021/03/20 11:00

サッカーの聖地マラカナン改名騒動… 「王様ペレ」なのに大反対、背景にある“剛腕ジャーナリスト伝説”とは<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama/JMPA

ドイツとメッシ擁するアルゼンチンが激突した2014年W杯決勝の舞台マラカナン。改名騒動はブラジル国中を大きく騒がせているという

ライバル関係を“煽る”という斬新な報道スタイル

 当時のブラジルのフットボールは、アマチュアだった。各地で州選手権が行なわれていたが、レベルは今ひとつ。全国リーグが存在せず、代表チームもコパ・アメリカ(南米選手権)でウルグアイ、アルゼンチンに歯が立たなかった。

 1930年にウルグアイで開催された第1回W杯に出場したが、グループステージで敗退。トーナメント方式で行なわれた1934年大会では、あえなく初戦で姿を消した。

 このような状況で、マリオ・フィーリョはフットボールの人気を高めようと知恵を絞った。

 試合だけでなく毎日の練習から取材し、臨場感あふれる描写で読者を惹きつけた。リオを代表する人気クラブであるフラメンゴとフルミネンセの対戦を「フラ・フル」と命名し、試合の数日前から双方の選手、クラブ関係者、サポーターの対抗意識を煽って読者の関心を高めた。いずれも現在は一般的だが、当時としては極めて斬新な手法だった。

 1931年、父親の新聞社を飛び出してブラジル最初のスポーツ紙「ムンド・スポルチーボ」を創刊。オーナーでありながら、編集長、エース記者として活躍した。その2年後、ブラジルのフットボールがプロ化され、選手の技量が向上。白熱した試合が増え、観客動員が急増した。このことは、代表チームの強化にも直結した。

 1938年の第3回W杯で、ブラジルはオーバーヘッドキックの考案者とされるCFレオニダス・ダ・シルバらの活躍で勝ち進み、3位に食い込んだ。それまで南米でもなかなか勝てなかったブラジルが、初めて世界の頂点を視野に入れたのである。

 この年の10月、マリオ・フィーリョは国内最大のスポーツ紙だった「ジョルナウ・ドス・スポルチス」を買収。ここでもオーナー、編集長、第一線の記者を兼務し、思う存分、健筆を振るった。

W杯開催でのメイン会場案に、敢然と異を唱えた

 一方、第二次世界大戦で欧州が焼け野原となり、FIFAは1942年と1946年のW杯開催を中止せざるをえなかった。

 1946年7月、戦後初のFIFA総会で、ブラジルが1950年の第4回大会開催国に立候補。戦争の爪痕が残る欧州からは開催を希望する国がなく、無投票で開催国に決まった。

 となると、首都リオにW杯のメイン会場を用意しなければならない。当時、リオで最大のスタジアムは、バスコダガマの本拠地サン・ジャヌアリオで、収容人員は4万人あまり。ほとんどの人が、「サン・ジャヌアリオを8万人規模のスタジアムに改修すれば事足りる」と考えた。

これに対し、マリオ・フィーリョは敢然と異を唱えた。

【次ページ】 ブラジル政府に生まれた思惑とは

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