フランス・フットボール通信BACK NUMBER
王様ペレに「神様」と呼ばれた、アフリカ出身初のフランス代表ラルビ・ベンバレクの数奇なサッカー人生
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byL’Équipe
posted2021/03/21 11:01
1948年5月23日、コロンブで行われたスコットランドとの親善試合でシュートを放つベンバレク
大戦終了後、ベンバレクはフランスに戻った。だが行き先はマルセイユではなく、首都のパリ。彼を獲得したのはスタッド・フランセで、監督はエレニオ・エレーラが務めていた。アルゼンチン人でスペイン・アンダルシアに起源をもつエレーラは、1930年代にカサブランカで青年時代を過ごし、選手として活躍した後にフランスに渡ってフランス国籍を取得するとともに監督のライセンスも獲得した。
ガブリエル・アノー監督(フランス協会技術委員長とレキップ紙編集長、フランス・フットボール誌編集長および記者を兼任)のもとフランス代表でアシスタントコーチを務め、その後はスペインで様々なクラブを指導、アトレチコ・マドリーでリーガ2連覇を達成しバルセロナでもリーガ制覇を果たした。さらにイタリアにわたってインテル・ミランでチャンピオンズカップとインターコンチネンタルカップを連覇。グランデ・インテルの時代を築きあげたが、このときはクラブの1部昇格の切り札として、自身のたっての願いでベンバレクを獲得したのだった。
エレーラとともに築いたアトレチコの黄金期
ふたりの力でスタッド・フランセは、1946年に1年で1部昇格を成し遂げた。だが、クラブ会長であるジャック・マローは、前季に続き5位に終わった47~48シーズンの成績に失望し、GKのマルセル・ドミンゴとともにベンバレクをアトレチコ・マドリーに売却した。直前の親善試合でベンバレクのパフォーマンスに圧倒されたアトレチコにとっては、願ってもない買い物だった。
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一方、スタッド・フランセのもうひとりの大黒柱であったエレーラも、クラブと袂を別った後スペインに渡り、1948年にバリャドリード、49年にはアトレチコ・マドリーの監督に就任した。ベンバレクとエレーラ、ふたりの再会は、アトレチコの黄金時代の到来でもあった。リーガ連覇(1950・51年)の原動力はベンバレクとスウェーデン人のヘンリー・カールソンで、とりわけ中盤にポジションを戻したベンバレクは、「神の足」の異名を戴く絶対的な存在だった。それはベンバレク自身にとっても、キャリアで最高の瞬間だった。
1953年にはOMとの関係が復活した。同年12月、リーグで浮上の兆しが見えないOMは、上昇の切り札として彼の獲得を画策した。会長のピエール・ロビン自らマドリードに出向いて臨んだ交渉はさしたる問題もなく合意に至り、ベンバレクの15年ぶりのOM復帰が決まった。新たにOMのユニフォームに身を包んだベンバレクは、まもなく37歳になろうとしていた。