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“スポーツマンNo.1”照英が語る青春時代と室伏広治との再会「ずっとシルバーメダリストでしたから」
text by
谷川良介Ryosuke Tanikawa
photograph byHideki Sugiyama
posted2020/11/11 11:03
「オリンピックも出たかった」という陸上を諦め、モデルの道へ。キャスターとして再会した室伏広治からかけられた言葉とは?
ファッション誌で見たバキバキのモデル
――大学卒業後、モデルの道に進んでいます。陸上を続ける選択はなかったのですか?
今から20年以上前は“プロ化”なんてそうそうない時代。陸上選手の基本は企業に就職させていただき、午前中は業務をこなして練習は午後。実績があっても待遇は決して恵まれてはいなかったですし、その環境下で記録を出し続けることは容易ではないんです。
それでいて、25〜26歳までに記録が出せなかったら解雇もありえる世界。お誘いいただいた企業さんもありましたが、もしそうなったらお先真っ暗じゃないかと、シビアな世界を異様なほど冷静に見つめていました。保健体育の先生の資格も取り、そこに興味あることにチャレンジするという3つの選択肢を準備して大学4年を迎えていました。
――そこで選んだのがモデルの世界だったと。
陸上をやっていたことを糧にできる仕事は何かなって考えていたんです。それに当時はスポーツ以外の時間はジャージは着ない!と、オフの日はカッコつけたりしていたので(笑)、ファッション誌をよく読んでいました。
そこにカルバン・クラインやアルマーニの広告に載るバキバキのメンズモデルを見たんです。あのナオミ・キャンベルと一緒に仕事をしている!と驚いて。女性は何十億も稼いでる時代でしたが、当時はマークという世界一稼ぐメンズモデルがいて、業界トップになれば3億円ぐらい稼げる、と。
陸上をやるよりはいい車に乗れる、お金持ちになれる近道かも、なんて浅はかな考えもありながら東京の事務所に履歴書を送りました。その時はまだ東海大に在籍していたので、私にとって就職活動のようなものでした。
――ということは、モデル活動は大学4年生から始めていた?
そうです、そうです。陸上をやりながら、たまにオーディションに行って……。だから「あんまり大っぴらにポスターとかできないんです」と言ってました(笑)
「しがみついでもダメだと思った」
――陸上を辞めたのもそのタイミングですか?
実は陸上への思いを簡単に捨てきれなかったので、大学卒業後に一度だけ実業団の大会に出ているんですよ。モデルのお仕事でいただいたお金を貯めながら、近所のスポーツショップに「名前だけ貸してください」と頭を下げてお願いしました。実業団の大会はスポンサーさえ見つかれば個人でも出場できるんです。「ファミリースポーツ」という名前で、ミズノさんに頼んでユニフォーム作ってもらったのが23歳のとき。陸上をやりながら、モデル業もやって、アルバイトもしていました。
――アルバイトも! 忙しい毎日でしたね。
釣りが好きだったものですから、アルバイトは上州屋。でも、その系列のアウトドアグッズを扱うキャンプショップに回されてしまって。でも、そのおかげでキャンプもやるようになりました。釣りもキャンプも番組に関わらせてもらっているので、全てが今に繋がっています(笑)
――陸上と線を引いたのはいつですか?
モデルの仕事をもっと頑張ろうと東京に引っ越したタイミング。東海大のグラウンドを借りて練習していたこともあり、当時はまだ寮の近くに住んでいたんです。そこで陸上をスパッと切った。実業団の大会でもなかなか記録が出ませんでしたし、昔みたいにガンガン練習もできなかった。しがみついてもダメだと思ったんです。