スペインサッカー、美学と不条理BACK NUMBER
目黒区の町クラブ→欧州王者! セビージャで奮闘する日本人分析官の軌跡
text by
工藤拓Taku Kudo
photograph byGetty Images
posted2020/09/17 11:50
EL制覇に貢献したセビージャスタッフ陣。若林氏は指揮官ロペテギらと共に写真に収まった。
S級相当を最短の4年で取得
語学の勉強もそこそこに飛び込んだセビージャでは、1年目から町クラブのセビージャ・エステで2チームのアシスタントを務めながら、指導者ライセンスを取得すべくコーチングスクールに通いはじめた。
「語学は日本で少し勉強したんですけど、アンダルス(アンダルシア訛り)がそこまで違うってことを知らなかったので、きつかったですね。でもサッカー監督になってトップでやるなんて言ったらすごく年月がかかる。だからコーチングスクールが始まる前にチームを探して、現場で言葉を覚えていこうと思って。見かけによらず結構(グイグイ)行くタイプなので」
語学の壁に苦しみながらも、コーチングスクールでは最短の4年で日本のS級に当たるレベル3のライセンスを取得。一方、現場では2年目から監督を任されるようになったものの、なかなか7人制(12歳以下)から上のカテゴリーに進むことができなかった。
ADVERTISEMENT
当初はレベル3を取得した時点で帰国する予定だったが、「7人制では終わりたくない」との思いからその後も他の町クラブで指導を続けた。ようやく11人制のチームを受け持てたのは渡西7年目に入る'15年。だがこの年、思わぬ転機が訪れる。
「父親が亡くなってしまって。それで1シーズンちょっとチームには所属しないで過ごしていたんです」
その間はサッカーを離れ、バイトをしながらセビージャで生活を続けていたが、やはり夢は捨てられなかった。'16-17シーズンには「スタート地点に戻ろう」とセビージャ・エステで監督業を再開。そして翌シーズンを迎える前、彼はある決意を抱く。
「もうずるずるスペインにいるのをやめようと思って。その年から2シーズンやって、セビージャやベティスのカンテラに入れなかったらスペインで監督を続けるのはやめようと決めたんです」
不退転の思いが呼び寄せたオファー
これがスペインでのラストチャンス。そう決心して門を叩いたのは、セビージャの下部組織で長年監督をやっていた指導者が代表を務めるサン・アルベルト・マグロというクラブだった。
「この人の下で自分をアピールして、それでセビージャやベティスに入れなかったら諦めもつく」
不退転の思いで戦い抜いた1年を終えると、憧れのクラブから待望のオファーが舞い込んだ。
「監督ではないんですけど、アナリストをやってみないかと。セビージャは自分が入る3年前にアナリスト部門ができたんですけど、シーズンごとに1、2人増えていく形で新しい人間を入れていたんです」