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小須田潤太がパラ五輪で超えたい壁。
山本篤との出会いで、夏も冬も――。 

text by

細江克弥

細江克弥Katsuya Hosoe

PROFILE

photograph byKentaro Hisadomi

posted2020/07/18 19:00

小須田潤太がパラ五輪で超えたい壁。山本篤との出会いで、夏も冬も――。<Number Web> photograph by Kentaro Hisadomi

100走、走り幅跳び、そしてスノーボードでパラリンピックを目指す小須田潤太。目標はパイオニア山本篤を超えること。

“つらい過去”と捉えていない。

 小学生から続けてきたサッカーは、高校に入ってすぐやめた。代わりに始めた引越業社でのアルバイトはとても楽しかったから、卒業後も契約社員として働き続けた。

 事故に遭ったのは21歳の時だ。原因は居眠り運転。片側3車線の大きな道路で中央分離帯に乗り上げ、そのまま標識に激突した。電柱と車に挟まれた右脚は、その場で切断された。

 聞いているだけで顔を歪めたくなるショッキングな出来事だが、小須田はまるで他人事のようによどみなく振り返る。

「自分の中では、それほど“つらい過去”として捉えていないんです。完全に自分のミスから招いた事故で、自分だけのせいで、自分だけがケガをしたので。事故の瞬間もそうだったんですよ。すぐに意識が戻ったけれど、頭をよぎったのは『会社になんて言えば』とか『荷物が』ということだけ。約1カ月の入院中もそんな感じで、自分自身や将来のことを考えて気分が落ちることはありませんでした」

 半年後には再び入院し、残っていた大腿骨を砕いて切断する手術を受けた。約3カ月間の入院中に義足を作り、事故から9カ月後、2013年1月には事務職として職場に戻ったという。

 ただ、義足との相性がどうにも合わなかった。我慢の時間は2年以上も続いた。

「メンタル的な抵抗感とかではなく、肉体的な違和感がものすごくて。特に最初の頃は切断した脚の太さが変わるので、義足がフィットしなくてすごく痛いんです。不快感だけ。着けるのが本当にイヤでした」

 仕事の大部分はデスクワークだから、義足は必要ない。職場への移動は松葉杖を使っていたから、義足を着ける時間はほとんどなかった。

しんどかった久しぶりの運動。

 事故から3年半後の2015年8月、小須田は初めて、自ら小さな行動を起こした。

 理学療法士から薦められたイベントは、ドイツに本社を構える医療器具メーカーの日本支社『オットーボック・ジャパン』が主催するランニングクリニックだった。そこに「軽い気持ちで」参加したのが、すべての始まりだ。

「3日間のイベントだったんですが、ただただしんどかった。“単なる運動不足”という意味です。3年以上ほとんど何もしてなかったんだから、当たり前ですよね。でも、単純に、身体を動かして汗をかくことが、とても楽しかった」

 日常生活のために着用する義足と、競技用のそれはまったくの別モノである。たとえば、体感する“バネ”が違う。競技用のそれには「トランポリンで飛び跳ねるような感覚」があり、日常用の使い方もままならなかったからこそ、小須田にとっては逆にその感動が大きかった。

【次ページ】 パイオニアからの「練習しよう」。

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