オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(13)>
北京五輪 バド女子スエマエペア
posted2020/07/19 09:00

中国ペアを倒し、北京五輪で4位に入賞した“スエマエペア”。2人の活躍が現在の日本バドミントンの隆盛に繋がっている。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
AFLO
Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
アリーナの空気は波ひとつなく凪いでいた。このゲームに何かが起こる気配はなさそうだ。きっと王者はこれまで通り勝者であり続けるだろう。これから目の前で繰り広げられるのは人生の大半がそうであるように、しごく順当なことだ。
バドミントン女子ダブルスの準々決勝。
中国が誇る楊維と張潔ブンのペア――世界ランク1位であり、アテネ五輪の金メダリストであり、北京でも大本命に挙げられている王者――は、第1ゲームを21-8という圧倒的な差で奪っていた。
挑戦者たる日本の末綱聡子と前田美順のペアには成す術がないようだった。
淡々とした空気の中、第2ゲームに向けて選手たちがコートチェンジをする。その時だ。肩にかけた自分のバッグを今までと反対側へドサッと置いた前田が叫んだ。
「ごめんなさい!」。何かを打ち破ろうとするような叫びだった。
「これから私のところにきた球は全部返します!」
それは隣にいた末綱に向けられたものだったが、同時に自分自身に訴えかけているようでもあった。
《私のせいだったんです……。体が全く動かなくて、普段なら返せる球も拾えなくて、それであんなボロボロの第1ゲームになってしまった。コートチェンジのとき、たくさんのカメラがあって、応援してくれる人たちが大勢いるのが見えました。こんな情けない試合が世界に流れているのかと……。せっかく初めてオリンピックにきたのに、こんなので終わっちゃうのかと思って……、何より隣で戦っている末綱先輩に申し訳なくて、思わずそう言っていました》
末綱先輩には申し訳ないんですけど……。
第1ゲーム、前田はほとんど機能していなかった。動きの悪さを王者に見抜かれ、明らかに狙われていた。
そうなってしまったのには理由があった。前田はいわば心と体のアイドリングがたっぷりと必要なスーパーカーだった。
ゲームの2時間前には会場に入り、他の選手の試合を見ながらアリーナの空気に慣れる。1時間前にさしかかったところで足裏からほぐし、靴下を履きなおす。シューズの紐を結び直し、それからシャトルを打ち始める……。天性の運動能力と強打を発揮するためには無数のルーティンを踏みながらエンジンを温める必要があった。
ところがこの日は午前10時からのゲームだったにも関わらず、アリーナについたのは9時過ぎだった。それより早い時刻には選手村からのバスが動いていなかったのだ。だから少し動いて、数球打つと、もう名前をコールされてしまった。
前田は超低速のままゲームに入らざるをえなかった。それは事実だった。
ただ前田は心の奥に、もうひとつの理由があることを本能的にわかっていた。
《末綱先輩には申し訳ないんですけど、私は根本的なところで勝てないだろうと思ってやっていたんだと思います。もちろん勝ちたい、そのためにやることはやってきた。でもどこかで、「それでも勝てないだろう」と思っている自分がいました》