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千葉すずが教えてくれた「距離感」。
メディアから逃げる彼女との1対1。
text by
藤田孝夫Takao Fujita
photograph byTakao Fujita
posted2020/06/15 11:50
1990年代、日本水泳界を牽引した千葉すず。世界選手権日本人女性初のメダリストとなり、五輪にも2度出場した。
インフルエンサーとしての価値。
あれから20年、僕らは東京オリンピック1年延期という重大な局面を迎えている。スポーツ界も牛歩のごとく進みながら、“無観客”という守りの対策をとるのが精一杯だ。文化としてのスポーツを奪還するまでの道程は遠い。間違いなく選手が一番辛い。ただ一介のカメラマンもそこそこ辛い。のしかかる無力感は筆舌に尽くし難い。
ではコロナ禍の中、膨大で空虚な時間を授かった僕はといえば、自宅でひたすらモノを整理することに努めている。中でもメインイベントはVHSや8mmをSDカードに移す作業で、本数は優に500本を超える。全てスポーツ関係で、大きく分けるとドキュメントか中継モノといった具合で、時代的には1985年から2000年にかけての約15年分。もちろん往年のすずもチョコチョコ出てくる。「情熱大陸」(TBS)、「ザ・スクープ」(テレ朝)、時には「クローズアップ現代」(NHK)のような報道ベースの番組にもすずは特集されていた。それほど社会的にもバリューがあった証拠である。
確かにメディアに叩かれ、メディアを嫌ったすずだったが、結局メディアはインフルエンサーとしての価値を彼女に見出していた。規定の路線に乗らない、乗れないキャラクターは、いつも賛否両論を運んでくる。メディアにしてみればありがたく、おいしかったのだ。
イメージ通りにことが運ぶことはまず無い。
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1990年すずが北京アジア大会で国際大会にデビューした頃、僕もフリーランスになった。貧乏を受け入れて自由を手に入れた僕は、“千葉すずを記録する”ことをライフワークとした。撮りたいから撮る、それだけだった。でも当初、10代の多感な少女をフレームに収めるのは簡単なことでは無かった。
カメラマンの群集を見つけては逃げる、逃げる。レース前の練習も、意図的にメディアを避けることが多かった。強すぎる感受性は時にキラキラ映り、時にギラギラ映った。こちらのイメージ通りにことが運ぶことなどまず無い。
でもそこが面白くて、魅力だった。