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野球を世界で喩え、世界を野球で。
伊藤亜紗が考える「スポーツ翻訳」。
text by
宮田文久Fumihisa Miyata
photograph byToshiya Kondo
posted2020/05/18 07:05
ラグビー選手の感覚を、ラグビー経験のない人が体験する。それを可能にするのが「翻訳」である。
逆に世界を「野球フィルター」で見ることも。
――この翻訳の先に、日常における各スポーツの本質が発見される瞬間もありそうですね。たとえば掃除機をかけている瞬間、料理をして味噌をといている瞬間などに、「あ、これってあの競技っぽい」という翻訳も起こりうるのでは、と。
「まさに世界観、世界を見るフィルターですよね。もちろん、この『見えないスポーツ図鑑』での翻訳の結果が、各競技の唯一の翻訳の仕方ではありません。もっとたくさんの、世界観の翻訳の仕方があるだろうと思います。
世界観と言えば、『レトリックと人生』(G・レイコフ、M・ジョンソン著)という本があります。レトリックは現実を分析するものであると共に、現実を変える力がある。たとえば『ツーアウト満塁から逆転だ』と言うように、ピンチをチャンスに変えようとすることを野球にたとえる、というようなことが多い人は、人生も野球に寄っていくはずなんです(笑)」
――たしかに、総力を結集して何かにあたるとき、「全員野球でいこう!」という人の人生は、野球的かもしれません。
「そうなんです。どのスポーツに現実をたとえるかということが、世界を見るフィルターの違いでもあるように、『見えないスポーツ図鑑』もまた、現実を捉えるフィルターであり、世界観なのだと思います」
(【前編】美学者・伊藤亜紗のスポーツ翻訳論。「棒を使わずにフェンシング」とは? を読む)