ラグビーPRESSBACK NUMBER
絶叫、熱狂、涙、ヤジをも知る人は
無観客でも同じように戦えるか?
posted2020/05/02 11:30
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph by
Yoshio Tsunoda/AFLO
昔、学生のころ、国立競技場の6万観衆の前でライバル校と戦い、NHKで全国中継もされた大学ラグビーの選手がこう話すのを聞いた。
「俺は無人の原っぱでも同じように試合ができる」
本当だろうか。疑ったわけではない。でも、その通りと小膝を打つ感じにもならない。まあ、わからなかった。
スポーツ、たとえばレスリングでもラグビーでも野球でもバドミントンでも「対戦相手」がいる。ダイレクトに倒し合ったり、奪い合ったり、硬い球をぶつけるように放ったり、視線とは反対のほうに羽根を落としたりする。それは闘争だ。
陸上や競泳のように記録を追う競技は競争だろう。でも隣のコースやレーンの相手と激しく順位を競り合えば闘争にも等しい。
その相手に勝てばよい。演劇や音楽のように見る者、聴く者の存在を前提に表現する行為とは違う。ゆえに観客がいようが、そうでなかろうが関係はない。理屈としては、ひとまず成り立つ。
確かに学生スポーツのいわば「一期一会」の対決ではそのくらい純粋な域にきっと達する。高校3年、あるいは大学4年、この一戦に青春のすべてをかけてきた。外の目など無用なり。「無人の原っぱでも同じように」の心意気にウソはあるまい。
観る人がゼロで、同じように戦えるか。
ひとつ前置きがある。「無人とはまさに無人」ということだ。
6万観衆を必要としない。そこまでは納得する。ならば、こちらはどうか。最低限の関係者(つまり、いつも一緒にいる人たち)を除いて人間がいない。観客はゼロ。100人、50人どころか、ひとり、ふたり、3人すらいない。これでも同じように戦えるだろうか。
同じようには戦えないだろうと想像する。いっぺんだけとわかっていたら、これはこれでおもしろいじゃないか、と集中できるかもしれない。しかし、次、その次と続けばどうなるか。「見る者・応援する者」のいたときと比べてジワジワと変わる気がする。
簡単に述べると選手も監督も燃えなくなる。昨今の新型コロナウイルス感染拡大の状況が続いて、やがて無観客のリーグや大会がしばらく常態化したとき、あのころのプロ野球、よれたラッパの響きや大歓声の球場での攻守からいかに変質するのか、そんな事態にはとてもなってほしくはないが、興味深い。
たとえ数人でも必ず自分を応援してくれる観客のいた競技会が本日も無人。そのとき名もなき走高跳の選手は心地よくバーを越えられるのか。ほかにだれもいないレーンでボウリングに励む気分とスコアは。