酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
球史に残る大豊作ドラフト、鉄拳。
生誕100年・西本幸雄の名将伝説。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2020/04/25 11:40
長池徳二(右)と歓談する西本幸雄監督。昭和の親父らしい厳しさとともにこんな柔和な表情も見せていたのだ。
長池らの人望を集めた打撃理論。
しかし西本幸雄は「戦力」の意味をよく知っていた。西本は大毎でも阪急でもリーグ屈指の打者、投手を擁するチームを率いた。しかしいかに優れた選手がたくさんいても、それを勝利に結びつけるには「強い統率力」が必要だった。個性があり過ぎる選手が勝手にプレーするだけでは強いチームにはなれない。
西本は戦時中、学徒出陣で中国大陸に転戦し、陸軍中尉で退役している。優れた指揮官だったという。その能力が、野球で発揮されたのだ。
西本は打撃理論に一家言ある指導者でもあった。西宮球場内に雨天練習場ができると、そこで長池徳二や森本潔などに個別に打撃指導を行った。そのうちこの「西本教室」に自主的に参加する選手が出て、その輪がチーム全体に広がり、西本は人望を得るに至ったという。
また西本は鉄拳制裁も辞さなかった。このあたりは「昔の人」という感じだ。
近鉄で鈴木啓示を再生、梨田も育成。
1973年限りで阪急の監督を退いた西本は翌年、近鉄の監督に就任した。就任時の印象を後年、こう語っている。
「近鉄と言うチームは、阪急と比べたら大人と子供くらいの差がありました。梨田(昌孝)や栗橋(茂)、羽田(耕一)など素質のある選手はいましたが、野球を知らなかった。そして鈴木啓示が1人で勝手に投げていたんです」
就任直後の自主トレ初日、西本は数人の選手を呼び止めて全員の前で叱りつけた。「厳しい監督が来たから、最初から飛ばすと潰れてしまう」とランニングの手を抜いた選手の心得違いを叱ったのだ。これでチームは一気に引き締まった。
ペナントレースが始まると、自分が作り上げた阪急の強さをあらためて思い知ったという。そのレベル差を莞爾ながらも、西本は近鉄でも利かん気の選手たちをまとめ上げ「戦力」にしていった。
南海ファンだった筆者は、弱くて諦めが早かった近鉄が、どんどんしぶとくなったのを実感していた。当時、2けた勝利が精いっぱいだった鈴木啓示が、西本監督になって復活して再び20勝するようになった。違うな、と思ったものだ。