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球史に残る大豊作ドラフト、鉄拳。
生誕100年・西本幸雄の名将伝説。 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byKyodo News

posted2020/04/25 11:40

球史に残る大豊作ドラフト、鉄拳。生誕100年・西本幸雄の名将伝説。<Number Web> photograph by Kyodo News

長池徳二(右)と歓談する西本幸雄監督。昭和の親父らしい厳しさとともにこんな柔和な表情も見せていたのだ。

30歳でプロ入り、そして大毎監督に。

 1950年、西本は30歳にしてプロ野球選手になる。6年間プレーしたが、両足の肉離れに悩まされた。堅実な一塁守備が目立つ程度で、本人も「いい選手ではなかった」と言っている。

 しかしリーダーシップを買われてコーチとなり、1960年には大毎オリオンズの監督に就任する。そして1年目に山内和弘、榎本喜八、田宮謙次郎など「ミサイル打線」と呼ばれた強力打線と左腕小野正一と言う絶対的なエースを擁し、パ・リーグ優勝。日本シリーズで大洋と対戦した。

<日本シリーズ結果>
1960年 大毎 0勝4敗 大洋 

 西本は大事なところでスクイズを仕掛けて失敗。これがワンマンの永田雅一オーナーの逆鱗に触れた。「ミサイル打線やのにスクイズするのか」と言われて西本は退団するのだ。

当時「灰色の球団」と言われた阪急。

 西本は1962年に阪急ブレーブスのコーチになり、'63年から監督に就任した。

 このころの阪急は「灰色の球団」と言われた。米田哲也、梶本隆夫と言う大投手はいたが、ほとんど優勝争いに絡まず。南海ホークスと西鉄ライオンズが一騎打ちを繰り広げた昭和30年代のパ・リーグにあって、完全なわき役だった。

「灰色のチーム」は、効率の悪い練習をしていたうえに、練習量自体も足りなかった。西本は日本で初めてサーキットトレーニングを導入。さらに、若手選手を抜擢する。日本野球に革命をもたらしたダリル・スペンサーの加入もあって、強豪チームになった。

 また1965年から導入されたドラフト制度の恩恵が大きかった。この年の第1回ドラフトで、阪急は法政大の長池徳二を獲得している。長池は徳島、撫養高校時代に南海のテストを受けたが鶴岡一人監督から「大学で勉強してからうちにこい」と母校の法政大を紹介されて進学した。

 長池はドラフトがなければ、間違いなく南海に入団し、野村克也と強力な中軸を組んだはずだ。

 南海はドラフト2位で長池を指名する予定だったが、阪急は1位指名、本塁打王、打点王各3回、MVP2回の活躍をする大打者になる。左肩にアゴを載せてがっちりと構える独特のフォームは、重戦車を思わせた。

【次ページ】 山田、加藤、福本の大豊作ドラフト。

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