草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
センバツ中止で「幻」となった、
中京商と岐阜商の61年ぶりの決勝。
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKyodo News
posted2020/03/26 11:40
当時の皇太子のご成婚と重なり、大会の歴史上唯一の決勝放映がなかった第31回。後の名監督、杉浦藤文擁する中京商が優勝した。
伝説の名監督・杉浦藤文。
勝った中京商にも「第92回」につながる物語がある。
「写真なら昔、見た覚えがあるんですが、テレビ中継がなかったという話は初めて知りました。父の現役時代の話はほとんど聞かされた覚えがないんですが、県岐商といえば昔からのライバル。当時の中京なら負けるわけがない。そう言いながら試合していたことでしょうね」
こう話すのは杉浦弘文氏。「父」というのが杉浦藤文氏である。古くからの高校野球ファンには広く知られている伝説の名監督だ。
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母校を率いて1966年に甲子園春夏連覇を達成。選手としても1番・二塁手として、この「第31回」を制している。そして、弘文氏の長男、つまり藤文氏の孫にあたる文哉が、中京大中京の選手として「第92回」に出場予定だった。
“親分の孫”たちは「夏」へ切り替え。
「父が生きていたら喜んだでしょうね。というより、無理矢理にでも開催させていたかもしれません(笑)。残念なことではありますが、私たち大人が思っているよりも、息子たちは落ち込んではいないんです。中止の翌日には練習していましたし、グラウンドに張り出していた『甲子園まであと8日』という紙も、すぐに『夏まであと114日』に張り替えたそうです。高橋(源一郎)監督や今村(陽一)部長に言われたんじゃなく、自分たちで考えてやったと」
中京大中京は明徳義塾の馬淵史郎監督が「松坂(大輔)以上」と絶賛した、エース・高橋宏斗を中心に、昨年秋の明治神宮大会を制覇。10年ぶりの選抜でも優勝候補の筆頭に位置づけられていた。
右投げ左打ちの内野手である文哉は、しぶとい打撃と堅守でベンチ入りメンバーに選ばれていた。次男の泰文も新2年生として野球部に所属している。藤文監督は教え子からは「親分」と慕われており、入学時には「親分の孫が入った」と騒ぎになったともいう。