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超一流商社を辞めて「海のF1」へ。
笠谷勇希がシェアハウスで見る夢。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph bySail GP
posted2020/03/14 08:00
世界で7カ国しか出られないレースに、日本は堂々と名を連ねている。笠谷勇希もそのクルーの一員だ。
両立か、どっちつかずか。
三井物産入社後も、笠谷は五輪を目指し、トレーニングを続けた。会社の寮は板橋にあった。大学時代同様、朝5時に起床し、自転車で戸田まで移動して、5時半から7時までボートを漕ぐ。7時半にいったん寮に戻り、朝食を食べて、9時に出社。夜8時か9時に仕事を終えると、それからまた戸田に戻って1時間から1時間半練習した。
社内では、上層部の配慮で、練習に支障をきたすことがないよう出張等の少ないデスクワークが主な部署に配属された。
エリートサラリーマンでありながら、アマチュア最高峰の舞台である五輪の舞台も目指す。その挑戦を周囲は「究極の両立」として好意的にとらえてくれたが、笠谷は常に葛藤していた。
「結局、どっちつかずなだけだったんですよ。仕事ができないときはスポーツにすがり、スポーツで結果が出ないときは仕事で覚えなきゃいけないことがたくさんあるからって思ってみたり。夜中、ふと『これって、どうなんだろう……』って頭をかすめることがあったんですけど、気がつかない振りをしていたんです」
リオ五輪は2人乗りボート、ダブルスカルで出場権獲得をねらったが、夢は近づくどころか逆に遠のいた。笠谷は「どっちつかずな」自分を直視せざるをえなかった。
「そりゃそうかな、と。気づかない振りをしていただけなので」
ソフトバンクのアメリカズカップ挑戦。
ちょうどその頃、日本ヨット界でビッグプロジェクトが立ち上がっていた。「ソフトバンク・チーム・ジャパン」が2015年4月、ヨット最高峰の舞台、アメリカズカップ挑戦を表明したのだ。日本のクラブがアメリカズカップに挑戦するのは実に17年振りのことだった。
挑戦に当たり、チームは新クルーを募集していた。笠谷が思い出す。
「友達が軽いノリで、こういうのあるから受けてみたら、って。ヨットなんてやったこともないんで、ちょっと調べてみたんですけど、すごいヨットで」
その頃、アメリカズカップで使用される予定だった「AC72」と呼ばれるヨットの帆は、高さ40メートルもあった。10階建てのオフィスビルを見上げるような感覚である。さらには、バミューダ諸島という見たことも聞いたこともない場所を拠点に訓練を重ね、外国人もいるチームとともに世界を転戦するという生活にたまらない興奮を覚えた。