オリンピック4位という人生BACK NUMBER
長崎宏子の涙は尽きたのか。
<オリンピック4位という人生(5)>
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byJMPA
posted2020/02/09 11:40
ロサンゼルス五輪200m平泳ぎの予選を通過するも下を向く長崎宏子。決勝に進出したが4位に終わった。
アメリカ留学、傷を塞いでいく旅。
あんなに好きだった水を嫌いになったまま漂っていた。翌年、県内有数の進学校である秋田北高校を中退し、アメリカへの留学を決意した。現地では4位のオリンピアンということをだれもが称賛してくれた。もっと誇りを持つべきだと言ってくれた。
少しずつ少しずつ、あの日の自分を許し、傷を塞いでいく旅が始まった。
1988年ソウル五輪は100m、200mともに予選落ち。ただ、誰が為に、何が為に泳ぐのか、しっかりとその手に握っていた20歳の女性は、あの日のように自分で自分を傷つけてしまうことはなかった。
1991年、競技を引退すると、当時体育協会から独立したばかりの日本オリンピック委員会(JOC)の職員となった。根底にはオリンピックの在り方を変革したいという漠然とした願いがあったが、目の前にあったのは圧倒的なメダル至上主義だった。
「自分の部門に関係する選手がメダルを取れるかどうか、それが、あの組織で働いている人たちのモチベーションや評価になっているのをひしひしと感じました。メダルを取れなければすごく落胆するし、怒りになって選手に向けられることもある。それを見て、ああ、私はこの人たちをがっかりさせたんだなとわかりました。ただ本来は、オリンピズムを広める機関なわけですから、矛盾を感じることもありました」
その中に異彩を放つ人がいた。春日良一。部の上司であり、長崎にとっては傷口をまるごと包んでくれるような出逢いだった。
「IOCがどういう人で構成されているか、オリンピックがなぜ平和運動なのか、選手のときには考えもしなかったようなことを教えられました。ロスで4位になったことを否定しつづける私に、そんなことしなくていいんだ、君が泳いでいること自体が平和運動になっているんだと、私が選手だったことの価値を高めてくれたんです」
涙はその水量を減らし、傷口が乾いていく。JOCを退職し、結婚した春日とスポーツコンサルティング事務所を設立した。
愛娘と一緒に入った水の感触。
26歳で愛娘を授かった。生後まもなく、ともに水の中に入ると笑ってくれた。長崎にとっての水がまたキラキラしはじめた。
「単純に素朴に、この子が早く水慣れすればいいな、とにかくプールが大好きな子に育てたいなと思ったんです」
今、長崎は生後6カ月から3歳未満の乳幼児が親とともに水に入る「ベビーアクアティクス」を中心に、水泳教室の講師として活動している。
「級なんてありません。泳げるようになるために踏まなきゃいけない級なんてないんです。来てくれた子を上手にさせる、プールが大好きな子にするのが私の仕事、もう生涯つづけていくことなんです」
だから今、笑える。だから、あの日の傷と向き合える。だから涙は止まった……。
「私が、オリンピック選手だったころの自分を否定することがあったんですけど、水を大好きになった娘たちが『そうじゃないよ。今のままでいいんじゃない』と言ってくれたんです。取材でも10年くらい前までは構えてしまっていましたね。あのときこうしておけば良かったとか、やはり後悔しか生まれないアスリートは結構きついんですよ。そういうのを思い出してしまうんです、話していると……」
前触れはなかった。そこまできて突然、長崎の目が潤んだ。こみあげてくるもので真っ赤になった瞳を、あれ、どうしちゃったんだろうというように手でぬぐう。
傷口はまだ泣いていた。