オリンピック4位という人生BACK NUMBER
柳本晶一は“世界の猫田”に挑んだ。
<オリンピック4位という人生(4)>
posted2020/02/02 11:30
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
PHOTO KISHIMOTO
2020年五輪イヤーにあたって、Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
カナダ南東部、モントリオール・フォーラムのコートに柳本晶一の叫びが響いた。
「監督、俺を使ってください!」
25歳、初めてのオリンピック。国内ではすでに強豪・新日鐵のエースセッターとして日本一に輝いていた。182cmの長身から左右でスパイクが打てる司令塔として、実績も自信も両手に余るほどだった。
だが、当時の代表チームにおいて、柳本のポジションはいつもコートの外だった。ミュンヘン五輪で金メダルを獲得したメンバーが主体であり、何よりも不動のセッター・猫田勝敏がいたからだった。
東京の銅、メキシコの銀、そしてミュンヘンの金と3色のメダルを持ち、日本が生み出したクイック、時間差攻撃は猫田なくしては成り立たないと言われていた。
「自分は日本一チームのセッターでしたけど全日本にいったら使ってくれない。一度もスタメンで出たことはありません。もう嫌になりますよ。最初はオリンピックのコートに立つために夢も希望も抱いて、俺のトスでメダルをとるんだと死にもの狂いで練習する。でも試合になったら水汲みばっかり。もうだんだんと朝起きたら『猫田、ケガせえ。猫田、ケガせえ』と心の中でロウソク立ててましたわ」
日の丸をつけた柳本の仕事は球拾いと水汲みと夜のウイスキー・ソーダ割り係。練習はいつも最後の15分間だけだった。
「晶一、それは人間力や」
やり場のないマグマを秘めたその胸中を知ってか知らずか、猫田はオリンピック前、柳本を飲みに誘った。
記憶では数人で五反田の鉄板焼き店へ。
「もうフラストレーションの塊やから、なんかあったら言うてやろ、と身構えてました。そうしたら、晶一、日本一はええもんか? と、くるわけです。こっちは待ってましたと、日本一はええもんですよ。言ったら悪いですけど、ならなわからんです。猫田さん、何回なりました? 僕は何回もなりましたよ、と言うたったんです」
猫田はそれを聞きながら「そうか、そんなええもんか。俺は日本一なったことないからな」と静かに言うと、こう続けた。
「でもな、晶一、オリンピックで世界と戦うっていうのはまったく別や。普通はなんぼ努力しても120点にしかならんが世界と戦うには150点いるんや」
柳本は自分がそれまでしてきた努力を思えば聞き捨てならなかった。
「僕も熱くなってね。ちょっと待ってくださいよ、これだけ生活も何もかも捧げてやってきて、あと30点て……。その30点てなんですか! と聞いたんです。そうしたらあのひと、晶一、それは人間力や。何か想定外のことが起きたときにそれを撥ねのける人間力や。技術とどっちが欠けてもあかんと、そう言ったんです」
その言葉が妙に柳本の胸に刺さった。