Jをめぐる冒険BACK NUMBER
下田アナの絶叫が心揺さぶる理由。
「20回言い間違えたとしても……」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2020/01/23 20:00
サッカーファンなら決定機の絶叫を聴けば、声の主がわかる。それほどまでの形を築き上げた下田恒幸アナ。偉大な実況者だ。
南アW杯・カメルーン戦での言葉。
業界内でたしかな信頼と評判を得るようになった下田に、転機となる瞬間がやってくる。2010年南アフリカ・ワールドカップである。
このとき、岡田ジャパンは窮地を迎えていた。ワールドカップイヤーに突入した2010年2月、ホームで韓国に1-3で惨敗すると、5月の壮行試合でも韓国に0-2で完敗。直前合宿中のテストマッチでもイングランド、コートジボワールに連敗し、重苦しい空気のなかでカメルーンとの初戦を迎えた。
選手入場の前、スカパー!の中継が始まると、ブブゼラの音が鳴り響くなか、感情を抑えた下田が口を開く――。
<ドーハの悲劇でアジアの列強とのわずかな差を痛感し、フランスのピッチで世界とはまだ距離があることを実感し、自国開催の熱狂で世界と互角に渡れると錯覚し、ドイツで味わった痛烈な敗北感。私たちは4年ごとに世界と向き合い、悔しさも喜びも糧にしながら、右肩上がりに邁進してきました。しかし、誤解を恐れずに言えば、この数年の日本サッカー界と代表チームには、いくばくかの閉塞感が漂っています>
こうして始まったイントロは、Jリーグの舞台で輝いている自分を存分に発揮してほしい、100%出し尽くしてほしい、それがすなわち一丸であり、それがすなわち全力なのだと訴え、次のような言葉で締められた。
<2010FIFAワールドカップ南アフリカ、グループEの初戦。日本にとっての4回目のワールドカップ。相手は「不屈のライオン」の異名をとるアフリカの雄、カメルーンです>
時間にして1分半、イントロとしてはいささか長いひとり語りだった。
Jを見続けたからこそ「もっとやれる」。
2005年からフリーランスになった下田にとって、この試合は日本代表戦の実況のデビュー戦でもあった。
当時、日本代表は多くの選手が国内にいたため、下田は2010年シーズンのJ1リーグの試合を可能な限りチェックし、ワールドカップに臨もうと考えていた。
Jリーグを見続け、代表選手たちのプレーを眺め続けて感じたのは、「きみたちは、もっとやれるはずだ」という想いだった。
その想いが、下田に長めのイントロ原稿を用意させた。
「でもね、直前までそれを読むかどうか迷ったんだよ。イントロはアナウンサーの見せ場なんだけど、凝りすぎると、押しなべてハマらない。そうすると、せっかくの大舞台が台無しになっちゃう。用意したイントロを使うリスクも大きいなと。だから、用意はしたけれど最後は全部捨てて、現場の雰囲気だけをコメントして中継に入ることも考えていた」
ぎりぎりまで迷った。迷い抜いた末に下田は決断する。
「FD(フロアディレクター)に、『冒頭でイントロを語る。ただ、かなり長いから覚悟しておいて、って東京の卓D(送出卓ディレクター)に伝えておいてもらえる?』と頼んだんだ」
結果、このイントロは多くの視聴者からの支持を得た。
多くのサポーターが共感したとするなら、それが、上辺の言葉ではなく、Jリーグの試合を見続けた下田の心の底から湧き出た想いだったからだろう。
「これはあくまでもイントロであって、実況ではないわけです。実況に関して言えば、この前と後で僕の力が急に伸びたわけでも、スタイルが変わったわけでもない。ただ、あのイントロで僕を認知してもらったのは確かだと思います」
ワールドカップ後、香川真司や内田篤人がドイツに渡ると、セリエAに加えてブンデスリーガも担当するようになり、それから数年後、プレミアリーグの仕事も増えた。
「一気に3つのリーグをやったんじゃなく、徐々に広がっていったのも良かった。まずセリエを3年くらいやって下地ができたところでブンデス、そこでもベースができたところでプレミア。そうやって3つの山を築けた感じですね」