Jをめぐる冒険BACK NUMBER
下田アナの絶叫が心揺さぶる理由。
「20回言い間違えたとしても……」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2020/01/23 20:00
サッカーファンなら決定機の絶叫を聴けば、声の主がわかる。それほどまでの形を築き上げた下田恒幸アナ。偉大な実況者だ。
当時Jクラブのない仙台のTV局に。
在京キー局への就職はならなかったが、地方のふたつの局から内定を得た下田は、仙台放送を選んだ。'89年のことだから、Jリーグはまだ産声をあげていない。当然のことながら、楽天イーグルスも存在していない。1973年から5年間、仙台で公式戦を行なっていたロッテオリオンズもすでに去っている。
それなのに、なぜ、仙台だったのか――。
「ほんと、自分がやりたいものが一切ない局によく入ったなと(笑)。でも、就職活動の過程で先輩から、『なるべく大きい局に入ったほうがいいぞ。キー局と仕事をする機会も多いから』と言われていたんです。仙台放送はフジテレビ系列の中では、関テレ(関西テレビ)、東海(テレビ)、その次の基幹局だったから」
結果的に、このとき進んだ道が、下田をサッカーの世界に導くことになる。
初めてのサッカー実況は高校総体。
サッカー実況デビューは思いのほか早くやってきた。
入社1年目の1990年夏、地元・宮城でインターハイが開催され、仙台放送は速報番組を放送した。最注目選手は、宮城の高校の陸上部に所属する、優勝候補のスプリンター。会場に足を運んだ下田は、リポーターを務めた。
「『今日は宮城陸上競技場です。このあと、注目の誰々選手が走ります』って頭付けして、レースにナレーションを乗せて、終わったあとにインタビュー、という流れだったんだけど、『実況をつけるので、良かったら使ってもらえませんか』と。入社半年で、よく言ったよね(苦笑)。でも、これが使えたみたいで、自分で言うのもなんだけど、上司に『こいつ、できるな』と思ってもらえて」
最初のチャンスに一発回答で応えた下田に、幸運が転がり込んでくる。
サッカー競技において、地元の東北学院高が天才ゲームメーカー上野良治擁する優勝候補の武南高を下してベスト4に進出すると、準決勝の取材を任されたのだ。
「上司に『おまえ、サッカー好きだろ、実況もつけて来い』と言われてね。これが、最初のサッカー実況。東北学院の主力は、元浦和レッズの土橋正樹でしたね」
その後、春高バレーやプロ野球ニュース、出雲駅伝などで力を磨いた下田のスケジュールにサッカーが入りこんでくるのは、Jリーグ誕生から2年が経った1994年秋のことだ。将来のJリーグ入りを目指し、ブランメル仙台(のちのベガルタ仙台)が誕生したのだ。
ときはJリーグバブル真っ只中。仙台のスポーツ文化の希望の光になり得るチームの動向を、地元メディアは総力をあげて報道した。1995年からは戦いの舞台がJFL(当時Jリーグに次ぐ2部リーグの位置づけ)に移り、各メディアは競争とばかりにアウェーでも追いかけた。
このチャンスを、下田は逃さなかった。