Jをめぐる冒険BACK NUMBER
下田アナの絶叫が心揺さぶる理由。
「20回言い間違えたとしても……」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2020/01/23 20:00
サッカーファンなら決定機の絶叫を聴けば、声の主がわかる。それほどまでの形を築き上げた下田恒幸アナ。偉大な実況者だ。
ブランメル仙台時代から“ひとり語り”。
「通常はディレクター、カメラマン、カメラアシスタントの3人で取材に行くんだけど、『俺が荷物を半分持って、アシスタントの仕事もやって、そのうえで実況もつけてくるから、カメアシの代わりに毎回取材に同行させてほしい』って直訴して。上司も『それ、面白いな』と言ってくれて」
とはいえ、仙台放送がブランメル仙台の試合中継をしていたわけではない。下田の声が入った映像が使われるのは、夕方のローカルニュースの中のわずか数分だ。それでも下田はキックオフから試合終了まで、ひとりでしゃべり続けた。
「ハイライトではナレーションも入るんだけど、映像のときに現場でつけた実況が入っていたほうが絶対に面白いからね。その発想は他局にはなかった。もちろん、中継ではないから放送ブースは使わせてもらえない。記者席やスタンドでヘッドセットを付けて、ひとりでしゃべる。でも、ほぼ全試合行ったからね。この経験は大きかった」
下田のひとり語りは、ブランメルが1999年にベガルタとして生まれ変わってJ2に参戦し、2001年11月にJ1昇格を決め、2003年11月にJ2に降格するまで続いた。
当時、仙台放送も年に1、2試合はベガルタの試合中継をし、もちろん下田が実況を担当した。さらに再びJ2へと戦いの場を移した2004年には、スカパー!とJ SPORTSから仙台放送が中継映像の制作を依頼されたから、下田は20試合弱の実況を担当した。
夢を現実にするための、機は熟した。
ところが翌年、楽天イーグルスが創設されたこともあり、仙台放送はJリーグ中継の下請けを断ることになる。
「当時は35歳くらいなんで、アナウンサーとしてはこれから。経験を積めば、まだまだ伸びる。ところが、年間17、18試合の中継を担当できていたのが、また年間1、2試合に減ってしまう。取材に行ってオフコメントだけつけて帰ってくる状況に戻るというのは精神的にキツい。それに……」
'90年代後半からWOWOW、J SPORTS、スカパー!など、CSのテレビ局がサッカー中継を行なうようになっていた。特にスカパー! は、2002年日韓ワールドカップを全試合中継してから、より一層サッカー中継に力を入れるようになった。
「'05年というのは、ドイツ・ワールドカップの直前で、各国の親善試合がたくさん放送されていたんだよね。僕自身、野球中継も、バスケも、バレーも、フォーミュラ・ニッポンの中継も経験していたから、いろいろなものがある程度できるだろうと。手応えはあったし、辞めるならここかなって」
夢を現実にするための、機は熟したのである。
独立した下田は、2006年のJ2から始まり、世界バレーや世界バスケの実況も行なった。さらにスカパー!がJリーグ全試合の放映権を取得した2007年以降は、Jリーグ中継で週末のスケジュールが一気に埋まる。
その頃からセリエAやチャンピオンズリーグも任されるようになった。
「こうして振り返ってみると、流れ的には出来すぎだよね(笑)」