オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<1964東京 フェンシング団体4位>
田淵和彦「敗戦に抗い続けた男」
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKYODO
posted2020/01/12 11:30

1964年10月、国立競技場で行われた開会式で最後に入場した日本選手団。
小学生に試合を吹っかけられた。
熱狂の東京で戦う田淵の脳裏には、パリでの2年間が克明に刻まれていた。留学先のパリ郊外・国立スポーツ体育研究所。田淵はこの地で本場のエリートたちと技を磨くはずだった。しかし待っていたのは蔑視と屈辱だった。
「日本人がなぜフェンシングをやっているんだと、そういう目で見られました。同年代の選手は相手にしてくれない。小学生に試合を吹っかけられました。それを僕らと同い年のやつらが笑ってみている。失礼な扱いを受けましたよ。だから、小学生だって容赦なく、けちょんけちょんにやりました。この屈辱に耐えて、いつかこいつらを倒してやるんだと思って……」
フェンシングは中世の騎士の剣術を発祥としている。だが、田淵と大川は剣を握っても“騎士”とは見なされなかった。
研究所での練習を終えると、パリの中心街にある道場にこっそり通った。帰るのはいつも日付が変わる時刻だった。バス代を浮かすため、地下鉄の駅から停留所4つ分の距離を歩いた。真っ暗な夜道、背中の防具入れをガチャガチャと鳴らしながら棒のようになった足を引きずった。
「泣いたらいかん。絶対勝つぞ。フランス語なんてうまくならんでええ、こいつらを叩きのめして勝つことしか考えるなって。大川とそう言い合ったんです」
日本と外国。武士と騎士。その狭間に立ってもがいたからこそ、田淵は己が何者で何をすべきかを知りつつあった。
武士道と騎士道の間で揺れた瞬間。
そして、それは東京での開会式、昭和天皇の声を聞いた瞬間に確信になった。あの夏の日から心に染み込んだ寂しさ、敗北感を拭い去るには外国に勝つしかない。田淵にとってそれはフランスに勝つことだった。
「私たちはフランスの中心選手と同じ部屋で寝泊まりしていたので性格から剣のクセまですべて知っていました。相手のメンバーがどの順番で出てくるかも、星勘定もできていた。1試合で何回突いてくるかまでわかりました。それはフランスが相手だからできることなんです」
だから準決勝を前に、主将として監督に自らの考えを伝えにいった。
「ただ……、監督にはどの試合も全力を挙げてやるべきだと言われたんです。日本の剣は全力で相手の命を絶って勝ちとし、西洋の剣は相手の血を見て勝ちとする。その違いでしょう。監督が決断したなら僕は従うだけでした。そこに逆らってまで、ということはできませんでした」
武士道と騎士道の間で揺れた瞬間だった。悲劇があるとすれば、海の向こうから日本を見たのが田淵と大川のふたりだけだったことかもしれない。日本は大川が3戦全勝する奮闘を見せたが、4勝9敗でポーランドに敗れ、銅メダルをかけたフランスとの3位決定戦に突入した。