「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
「まだまだ谷間の世代は終わらない」
阿部勇樹38歳、笑顔で語れる理由。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/10/10 11:30
優しい瞳の奥に備えた戦術眼。南アフリカW杯、ジェフ、レッズで輝いた阿部勇樹は今もなおJ1のピッチに立つ。
「弱っちい」と回想する疲労骨折。
阿部にとってワールドユースは、「自分と同い年の海外の選手がどういうレベルでプレーするのか。それが手っ取り早く分かる大会だと思っていた」。
だが、結果から言えば、阿部は2001年ワールドユース本番はおろか、前年のアジア最終予選(アジアユース選手権)にさえ出場していない。大会を迎える度に、疲労骨折を繰り返したからである。
「プロとしての覚悟が足らなかったんじゃないかな。だから、ケガを繰り返したり、大事なところで(大会に)行けなかったり。メンタルのところでも、やっぱり今と比べたら、『あー、なんて弱っちいんだろうな』って(当時の自分を)可愛らしく思えるくらいだから(苦笑)」
阿部は若くして頭角を現していたにもかかわらず、自身もまた谷間の世代のひとりであることを、日々思い知らされていた。
「当時は、隠れてボールを蹴ろうとしたり、ジェフのメディカルスタッフに迷惑をかけましたね。だいたいバレている感じでしたけど(苦笑)。だから、谷間の世代と言われたとしても、悔しいけど、受け入れるしかなかった。事実だと思っていましたから」
実際、阿部は常に同世代の一歩先を進んではいたが、A代表にはなかなか定着できずにいた。
初めてA代表候補キャンプに参加したのは、20歳だった2001年10月のこと。U−20世代からも新戦力を抜擢したいというトルシエの意向により、阿部は前田遼一とともに招集された。
だが、当時を振り返り、「このままでは、今後呼ばれることはないなと思いました」と阿部。「A代表に来る選手は、(ボールを)止める蹴るのレベルが高い。2日間でしたけど、これくらいやれないと、ここは目指せないんだなって思い知らされた」という初キャンプだった。
日韓W杯、ジーコ体制にも食い込めず。
その後も、自国開催のワールドカップを目前に控えた2002年1月、阿部はA代表候補キャンプに参加している。しかし、このとき彼が口にしていた言葉は、「代表候補に選ばれていることは今でも信じられないし、今はまだワールドカップ出場が見えてはこない。2002年がダメでも、最後までチャレンジすることが先につながっていくと思う」だった。
阿部にはまだ、A代表にふさわしい実力以上に、絶対に生き残るという覚悟がなかった。
結局、阿部が初めて国際Aマッチに出場するのは、A代表監督がジーコに代わった後の2005年1月。ようやく踏み出した第一歩だったが、ジーコは新戦力の重用に積極的ではなかったうえ、とりわけ層の厚い中盤に食い込むのは厳しかった。2002年に続き、2006年もまた、阿部がワールドカップの登録メンバーに名を連ねることはなかった。
その間、阿部は自身初の世界大会となる、2004年アテネ五輪に出場した。
「小学生や中学生だったときにサッカーで知り合って、ライバルとして一緒にやってきた選手がほとんどだったので、そういった仲間たちと1試合でも多くやりたかった。それが正直な気持ちでしたよね」
オシムが去って迎えた、南アW杯。
だが、阿部は3試合すべてに先発フル出場するも、本職であるボランチでの出場時間はわずか。「悔しい気持ちもあるし、いい経験になったかなとも思うし」という初舞台は、グループリーグ敗退に終わっていた。
自分たちへの低評価を見返したいと願いながら、不運も重なり、それが一向に果たせない。雌伏の時を過ごす阿部に、ようやく好機が巡ってきたのは、2010年のことである。
2006年ワールドカップが終わり、ジェフでの恩師であるイビチャ・オシムがA代表監督に就任したことで、阿部は主力に定着。ポリバレントさを重視する指揮官の下、ボランチ、センターバック、サイドバックと様々なポジションを務めながら、存在感を強めていった。
ところが、ワールドカップを目指す過程で、オシムが病に倒れる。指揮権が岡田武史へと委ねられると、阿部は次第にチーム内での序列を下げていった。
「予選もそんなに多くは出ていないし、自分が選ばれるかどうか」
そう考えていた阿部は、どうにかワールドカップの登録メンバーには滑り込みはしたが、現実的な位置づけは、ボランチの他、DFラインならどこでもこなせるバックアッパー。それが妥当な見立てだった。
しかし、だからこそ、覚悟も決まった。阿部は「メンバーを見て、同い年が多いなって思ったし、またこういうメンバーと、すばらしい大会を戦えるっていううれしさもあった」と、まずは素直に選出を喜ぶ一方で、「年齢的にも(ワールドカップ出場は)ラストチャンス。ひとつの目標としていた舞台で、少しでも試合に出られるようにっていう思いで、(大会直前のキャンプ地である)スイスへ行きました」。