「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER

「まだまだ谷間の世代は終わらない」
阿部勇樹38歳、笑顔で語れる理由。 

text by

浅田真樹

浅田真樹Masaki Asada

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photograph byYuki Suenaga

posted2019/10/10 11:30

「まだまだ谷間の世代は終わらない」阿部勇樹38歳、笑顔で語れる理由。<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

優しい瞳の奥に備えた戦術眼。南アフリカW杯、ジェフ、レッズで輝いた阿部勇樹は今もなおJ1のピッチに立つ。

トルシエが飛び級で招集したほど。

 高校生にして日本のトップリーグで活躍する逸材を、周囲が放っておくはずはなかった。とりわけご執心だったのは、A代表の他、五輪代表、U−20代表の監督を兼任していたフィリップ・トルシエである。阿部は1999年、17歳にして“飛び級”でU−20代表候補に選ばれた。

「(1999年4月のワールドユース選手権の)直前くらいかな。最後の最後で呼ばれて。もちろん、(ワールドユースに)行けるものなら行きたかった。2個上の世代(が黄金世代であること)は知っていたし、そういったチャンスがあるならば、とは思いますよね」

 黄金世代によって構成されたU−20代表は、結果的にワールドユース準優勝という偉業を成し遂げるのだから、ひょっとすると、阿部もその歓喜の輪に加わっていたかもしれない。そんなことを想像させるエピソードである。

 しかし、大会が開催されるナイジェリアへ渡航するには、事前に時間をかけて、何種類もの予防接種を受けておく必要があった。トルシエは阿部を連れていきたいと主張したが、選手の安全を最優先する日本サッカー協会が、それを認めるはずはなかった。

 阿部本人は、最終候補キャンプに呼ばれた時点で、実は自分が大会に出場できる可能性はほぼないことを理解していたという。

「行きたいとは思いましたけど、協会とクラブの判断に従うしかないと思っていました」

 そもそも飛び級での選出だった阿部にしてみれば、“本番”は2年後のワールドユース。決定に従うことは、それほど難しいものではなかったのかもしれない。

心身のバランスが取れないまま。

 だが、今にして思えば、それがケチのつき始めだった。

 高2でJリーグデビューを果たして以降、谷間と称される世代にあって際立つ活躍を見せていた阿部だったが、本人曰く、「(J1残留争いを繰り返していた)ジェフの成績もあって、正直、順調とは思っていなかった。やらなきゃいけないことがたくさんあって、そのときはいっぱいいっぱいでした」。

 果たして早熟の逸材は、心身のバランスが取れないままにプレーを重ねたツケを、早々に払わされることになる。

「若いときは、考えが甘かったんでしょうね。(年齢が)上の人たちとサッカーをするとなると、これだけやってりゃいいやっていう消極的な考えであったりだとか、そういう甘い部分があったと思うんで。ここ10数年、大きなケガをしていませんが、今考えたら、(当時は)ケガをしたのにも理由があったと思います」

【次ページ】 「弱っちい」と回想する疲労骨折。

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