サムライブルーの原材料BACK NUMBER
中村俊輔を開花させた師との出会い。
プロ1年目、若気の至りを見守られて。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2019/06/05 10:30
ルーキー時代の中村。1997年はリーグ戦27試合、5得点で優秀新人賞を受賞した。
監督は何も言わず、中村を使い続けた。
監督のマネジメントとすれば、中村を叱り飛ばしたりすることもできた。1対1で話して、諭すこともできた。その態度を見て、試合で起用しないことだってできた。
しかしアスカルゴルタは何も言わなかった。そして中村を使い続けた。
それは何故か。
「明らかにぶすっと」は交代直後だけであり、トレーニングでは90分間試合に出続けるための努力をしていたからだ。反発を成長のパワーに変えているルーキーの姿を見て、わざと放任にしたのだった。アスカルゴルタは'98年のファーストステージで横浜を去った。中村にとっては濃密すぎる1年半であった。
後日言われた「壊したくなかった」。
後日談がある。
欧州でプレーしていたころ、アスカルゴルタがわざわざ足を運んでくれたことがあった。
一緒に食事を取り、今まで聞けなかった途中交代の理由を尋ねた。
白いひげが似合う恩師が語ってくれた言葉は今も忘れない。
「アスカルゴルタさんは“壊したくなかったから”と言ってくれた。プレーのいいイメージのまま交代させて、こっちがもう少しやりたかったっていうメンタルのまま1週間、練習をやって、また試合でいいプレーをするようにする。いろんな意味はあるけど、(そのサイクルを)壊させたくなかったというのが一番の理由だと知った」
有難い配慮を分からないまま、反発に変えていたことを恥じる思いが膨らんだ。しかしアスカルゴルタは、そういったことも全部分かってくれていたことも理解できた。感謝しかなかった。あの1年目があったからこそ、翌'98年には日本代表の強化合宿に呼ばれるほどまでに成長できたのだから。
自分の力だけでは才を伸ばせない。
外を見て、外に触れて、自分を見て、自分に触れて。
偶然の出会いと、必然の成長と。
それを繰り返して、今の中村俊輔がある。